Keylong

[dropcap]長[/dropcap]く滞在した町というのは、どうしても深く記憶に残るものだ。バックパッカー用語では、居心地のいい町に長期に渡ってズルズルと留まってしまうことを「沈没」と呼ぶ。おそらく旅行作家の蔵前仁一氏辺りが広めた言葉であろう。ただ、僕はバックパッカー的な旅行をしていたものの、沈没は滅多にしたことがなかった。常に目的意識を持って旅行をしているため、旅行中、特に何もせずに1日が過ぎて行くのが我慢ならないタイプである。常に自分をトラベル・ハイ状態に置き、日中は最大限に動き回って、夜は宿で旅行記を書く、というのが、いつしか身に付いた旅行日課・旅行哲学であった。よって、旅行記に書くことがなくなる沈没などもってのほかであるし、リゾート逗留型のバカンス旅行なども大の苦手だ。

 そんな忙しい旅行者である僕が、旅先で最も長く一ヶ所に留まったのは、おそらくヒマーチャル・プラデーシュ州ケーロンである。マナーリー~レー・ロードの途上にあり、バーガー川を見下ろす切り立った山の中腹、標高3,000mほどの高さにある、人口2,000人ほどの小さな町だ。ヒマーチャル・プラデーシュ州最北部に位置し、ロータン峠(標高3,978m)、クンザム峠(標高4,590m)、バララチャ峠(標高4,890m)に囲まれた地域はラーハウル地方と呼ばれており、仏教とヒンドゥー教が混淆している他、言語もチベット語系の言語とヒンディー語が混ざり合っていて、興味深い。11月頃から5月頃まではこれらの峠が積雪で閉ざされるために外界から遮断されてしまうが、インド最高品質のジャガイモやグリーンピースを産出しており、僻地ながらも経済的には潤っている地域である。ケーロンは、そんなラーハウル地方の中心都市だ。

Keylong

 

 もし、マナーリー~レー間を陸路で移動するなら、ケーロンには必ず立ち寄ることになる。この全長およそ500kmの困難な道を1日で走破しようと1泊または2泊で走破しようと、ケーロンは必ず通ることになるし、休憩地・宿泊地としても絶好の位置にあるからだ。だが、ケーロンを訪れる外国人旅行者の9割は、おそらくマナーリーまたはレーを目的地として移動中の者で、後はトレッキングのためにこの町をベースとする者が若干数いるくらいであろう。わざわざケーロンを観光しに訪れる者など皆無に近い。

 僕がこのケーロンに長期滞在することになったのも、決して自ら望んだからではなかった。2010年、僕はマナーリーからレーに向けてバイクで移動していた。まだ高所の峠には雪が残る5月のことだった。ロータン峠は何とか越えることができたものの、その先のバララチャ峠はまだ開通しておらず、ケーロンで足止めを余儀なくされていたのだった。あわよくば、マナーリーから陸路でレーに一番乗りしたいと、無意味な栄誉を夢想していた。

Lahaul

 しかし、現実はそう甘くなかった。レーへ続く道の途中に立ちはだかるバララチャ峠では断続的に積雪が続き、最近雪崩も発生したとのことで、開通は例年に比べて遅れていた。最初の内は、高地順応のためにちょうどいい、と悠長に構えていたものの、なかなか開通の報は来ず、次第にタイムリミットが近付いて来て、焦燥感に駆られるようになった。実はこのとき、日本では第一子が生まれようとしていた。出産予定日は6月初めとのことであったので、何としても5月いっぱいで旅を切り上げなければならなかった。結局、ケーロンには1週間滞在したものの、バララチャ峠は一向に開く気配を見せず、無念にも引き返すことになったのだった。

 ただ、このときケーロンで過ごした1週間は、後から振り返ってみると、長いインド滞在の中でもなかなか経験したことがないような、充実した時間だった。まずは、ケーロンを起点にして、ラーハウル地方のいくつかの見所を見て回れたのが貴重な体験であった。交通が不便なこの地域の観光資源はまだあまり外部に紹介されておらず、バスなどの公共交通機関に頼って移動する旅行者には観光すら難しい。バイクで自由気ままな旅行をしていたからこそ訪れることのできた場所があった。トリロークナートやウダイプル(ラージャスターン州の同名都市とは別)などはその筆頭だ。未知の観光資源を発掘することほどエキサイティングなことはない。

Mrikula Temple in Udaipur

ウダイプルのムリクラー女神寺院

 また、ラーハウル地方の景観の美しさは決してカシュミール地方に劣るものではなく、もしかしたらインド随一のものと豪語してもそう反論は来ないかもしれない。その景観を思う存分楽しむことができたのも、ケーロンに長く滞在したからこそであった。ケーロンからはセブン・シスターズと呼ばれる雪を抱いた美しい連峰が見えるし、ラーハウル地方全体が森林と雪山と河川の織り成す絶景の連続だ。インド・プレートとユーラシア大陸がぶつかってできた歪みが山肌にグニャグニャの地層となって刻まれているのもこの辺りの光景のユニークな特徴である。実は、ラーハウル地方の美しさに魅せられたのは何もこのときが初めてではない。2002年に乗合ジープでマナーリーからレーへ移動したことがあり、そのとき既に、高山病で朦朧としていた僕の脳裏に、緑と白と青の織り成す、雄大だが優しく人を包み込むラーハウルの景観が深く焼き付いていたのだった。あのとき無意識の内に抱いた、いつかここでのんびりできたら、というささやかな願いが、8年後に奇しくも実現したのだった。

 ケーロンではホテル・タシデレに宿泊した。おそらくケーロンで最も高級なホテルである。ここも非常に居心地が良く、オーナーのタシ氏やその妹にもとても親切にしてもらった。タシ氏は山岳ガイドから身を起こした人物で、日本人登山家の世話もよくしていたらしく、日本にとても親近感を抱いていた。夕食時には自ら厨房に立つような、行動的なオーナーで、暇していた僕を近くのゴンパにジープで連れて行ってくれたりもした。レー行きを断念し落胆していた僕に、ラーハウル地方の魅力を教えてくれ、励ましてくれた張本人であり、恩人でもある。

Gondhla Fort

ゴーンドラー城

 ケーロンは意外に食も楽しめる町で、メインロードにモモ屋が立ち並んでいる一角があり、そこのモモがどこも美味い。モモとはチベット風の蒸し餃子のことで、デリーなどの都市部でも流行っており、スパイスの効いたインド料理に飽きたときには重宝する。各地のモモを食べて来たが、ケーロンのモモはレベルが高い方だと評することができる。また、モモと一緒に出汁の効いたスープを出してくれるのだが、これがまたいい具合に身体を温めてくれる。ケーロンではモモの食べ歩きが楽しくて仕方がなかった。ただ、ホテル・タシデレのモモに適うモノはなく、夕方には必ずホテル・タシデレでモモをオカズに夕食をしたものだった。つまり、ケーロンではモモばかり食べていた。モモ好きにはたまらない場所だ。

 ケーロンは、非常に間接的にではあるが、日本とも少しだけ関係のある土地だ。「中村屋のボース」として知られ、日本に本場インドのカレーを紹介した独立運動家ラース・ビハーリー・ボース(1886-1945年)が、1912年12月23日のハーディング卿暗殺未遂事件などの首謀者であることが発覚し、英領インド政府から追われる身となったときに身を隠していた場所のひとつであり、町中には彼の胸像も立っている。彼は革命には失敗するものの、英国当局の追跡を振り切り、1915年には日本に上陸して、今度は海外からインドの独立運動を支援するようになる。彼の外からの独立運動は、その後スバーシュ・チャンドラ・ボースが引き継ぐことになる。また、ラース・ビハーリーは、東京で匿ってくれていた新宿中村屋の相馬家の娘婿となったために、「中村屋のボース」と呼ばれる。極論ではあるが、ケーロンがなかったら中村屋のカレーもなかったことになる。

Rash Behari Bose

 しかしながら、僕にとってケーロンが心の中で重要な位置を占めている最大の理由は、ここで長男の名前を考えたからである。バララチャ峠開通を待っている間、ちょくちょく散歩や遠出などをしてはいたが、それでもかなり時間を持て余してしまっていた。そんなとき、ホテル・タシデレのテラスに座って日光浴をし、セブン・シスターズを眺めながら、これから生まれて来る子供の名前をぼんやりと考えていた。もうすぐ父親になるという実感はまだあまりなかったが、人生の新しい章が始まる不安と期待に、落ち着かない気持ちを抱いていた。そして、親の誰もが考えるように、とりあえずは世界で一番素晴らしい名前を付けてあげたいと思っていた。

 青い空と白い山、そして日中だったが薄らと月が見えていた。この風景を名前にキャプチャーしたかった。空はペルシア語・ヒンディー語・ウルドゥー語などで「アースマーン」と言う。それを日本の男性名らしく「あすま」とし、漢字を「明日真」としてみた。漢字の中に「月」があるのもいい感じだ。かなりうまい具合に風景を切り取ることができ、もうこの名前で行くことを決意していた。多少の反対はあったものの、半ば押し切る形で命名した。

Seven Sisters

 その後、ケーロンには2012年にも訪れている。このときもバイクであったが、今回はシュリーナガル経由でレーまで行くことに成功し、帰路に立ち寄ったのだった。また、このときまでに長女も生まれていた。タシ氏と再会することもできた。そして、あのときホテル・タシデレのテラスから、レー行き断念、もうすぐ父親になること、長男の名前などに思いを巡らしつつ眺めていた風景を、また見ることができた。変わらぬ青い空がそこにあった。何より重要なのは、このときには4年前に果たせなかった夢――バイクでレーまで行く――を実現させていたことだった。この頃までには、父親としての自信も付いていた。自分の成長を、ケーロンの空に見せることができた気分であった。

 タシ氏とも約束している。いつか家族を連れてまたケーロンに来る、と。いつ実現できるか分からない。だが、もし僕が実現できなくても、明日真には大きくなったらいつかケーロンを訪れて欲しいと思っている。遺言のような形で、ここに密かな願望を記しておく。

Keylong Sky

2012年のケーロン

2014年2月25日 | カテゴリー : 旅誌 | 投稿者 : arukakat