高校時代の友人がウクライナ人と結婚し、ウクライナの首都キエフで結婚式を挙げることになった。今までウクライナとはほとんど接点がなかったのだが、それでも全くなかった訳ではない。例えば、デリーの語学学校でヒンディー語を勉強していた際、ウクライナからの女子留学生が何人か来ていた。当時は全精力をインドに集中していたため、ウクライナに関心を抱く暇はなかったのだが、唯一興味を持ったのは、ウクライナの地でキリスト教が受容される前に信仰されていた宗教だった。彼女たちの話では、ヒンドゥー教と非常に共通点があるとのことで、その研究をしている人もいた。そういえば、ウクライナの国章はトルィーズブ(三叉戟)だが、これはシヴァ神の持つトリシュール(三叉戟)とよく似ている。ウクライナに行くことがあれば、何かインドとの接点が見つかればと密かに思っていた。
知る人ぞ知る、なのだが、実はウクライナではIT産業が盛んになって来ている。例えばWhatsappの共同創業者ヤーン・クームやPayPalの共同創業者マックス・レヴチンはキエフ生まれのウクライナ人である。ITという共通項でウクライナとインドをくくることができる点も興味深い。とは言っても、ウクライナは現在ヨーロッパの最貧国のひとつ。一人あたりのGDPは日本の10分の1以下。物価はとても安く、外国人にとっては、旅行するにも生活するにも、選択肢が広い国だとも聞いていた。
また、つい最近では、ウクライナから日本への留学生ナザレンコ・アンドリー氏が、ウクライナが辿って来た苦い経験から、日本で憲法改正に反対している人々に警鐘を鳴らした講演が話題になり、ウクライナへの関心が俄に高まった。ウクライナは2014年にロシアにクリミア半島を奪われた他、親ロシア勢力によって東部地域を支配されてしまっている。1991年の独立以来、ウクライナは核兵器を放棄し、軍縮を進め、NATO加盟による集団的自衛権の行使も見送って来たが、アンドリー氏の主張によれば、その平和主義のために国土を失ってしまった。そして、ウクライナが辿って来た道は、現在の日本の状況とよく似ているという。彼の主張を吟味するためにも、一度ウクライナに行って様子を確かめてみたいという気持ちが生まれていた。
ついでに言えば、今年4月にはウクライナで大統領選挙があり、コメディアン出身のボロディミル・ゼレンスキー氏が当選したことで、日本でもウクライナが珍しくニュースになっていたことは記憶に新しい。
ちょうどいい機会なので、滞在期間を長めに取り、結婚式出席と同時にウクライナを旅行することにした。旅行期間は7月21日(日)から30日(火)。日本からウクライナまで直行便はない。ターキッシュ・エアラインズを使い、成田からイスタンブール経由でキエフに向かった。成田国際空港第1ターミナルから新イスタンブール国際空港までの飛行時間は12時間、その後、イスタンブールで3時間ほどの待ち時間があり、イスタンブールからキエフのボルースィピリ国際空港までは2時間。日本出発から翌日の午前8時半頃には現地に到着した。日本とウクライナの時差は6時間である。
ウクライナ到着
空港に着いてまずは両替をした。ウクライナの通貨はフリヴニャ(UAH)。空港の両替屋はやはりレートが悪く、1フリヴニャ=5.1円くらいだったが、後に市内の両替屋で両替をしたら1フリヴニャ=4.2円くらいになった。空港ではプリペイドSIMカードも入手した。Kievstar社のLTE・データ通信無制限SIMを315UAHで購入した。有効期間は不明だったが、1ヶ月くらい持つのではないかという話である。市内でもSIMカードはよく売られていたので、入手に困難はなさそうだ。また、キエフにいる限り、電波受信や通信速度に全く問題ないが、田舎に行くと3Gもしくは2.5Gになってしまう。空港からホテルまではUberを利用した。空港で客待ちをしているタクシー運転手は悪質なことが多いので、利用は避けた方がよいと助言された。他に市街地までのアクセスとしてはシャトルバスなどがある。
滞在先は、ポディル(Podil/Podol)地区のPodol Plaza Hotel。キエフはドニエプル河西岸に位置する天然の丘陵を城壁で囲んで防衛することで発展してきた都市だが、ポディル地区は城壁の外側、丘陵の裾野に広がった町だった。ポディルとは「裾」という意味らしい。友人の住居が近いことや、地下鉄駅やいくつかの観光地に近く、観光に便利そうなので、ここに決めた。ポディルは、路上電車が走るレトロな下町だ。
大学時代からよく海外旅行に行っていたこともあって、訪問国数は少ない方ではないのだが、今まで縁がなくてヨーロッパには足を踏み入れたことがなかった。よって、初ヨーロッパがウクライナとなった。降りたって気づいたが、これだけ周囲が白人のみという環境に置かれたのも初めてだった。キエフでは地下鉄をよく利用したが、プラットフォームに降りるエスカレーターに乗っていると、すれ違う人すれ違う人、皆、白人であったし、地下鉄の車両に乗り込んでも、同じ車両に白人以外の人種は僕だけということがほとんどだった。だから、僕の存在は非常に目立ったと思うのだが、ウクライナ人はどちらかというと、異質なモノに対しては無関心を装う国民性のようで、凝視して来るような人はいなかった。
ウクライナというと、世界有数の美女大国として挙げられることが多い。通りすがる人、みんながみんな美人ばかり、という訳ではないが、足がスラッと長く、細身で長身の女性たちが目立つ。しかも、流行なのか習慣なのか、ホットパンツを履いている女性が多いので、足の長さと美しさがさらに際立つ。ウクライナ人を見ていて、洋服はやっぱり西洋人のためのものなのだな、と感じた。和服を着て生活をしたくなった。
ウクライナ人女性の個人的な第一印象は、純朴で優しいというものだった。決して冷たい感じではなく、とてもにこやかである。人によっては、ウクライナ人には元共産国特有の冷淡さがあるという意見を持つようなのだが、僕がそのような印象を受けたことはウクライナ滞在中は稀だった。用事があって話しかけてみると、とても気さくに笑顔を返してくれた。
ウクライナの雑踏を観察していて気づいたのは、老人の少なさだ。高齢社会の日本では、街頭にどうしても老人の姿が目立つが、ウクライナでは若者か、もしくは中年ぐらいまでの人々がよく目に入る一方、老人は少数派だ。若年層の人口比をキチンと調べた訳ではないが、肌感覚では若者が多い国だと感じた。
ウクライナでは現在、憲法でウクライナ語が国家語として規定されている。だが、歴史的な過程からロシア語もよく通じ、大半のウクライナ人はこの2言語をインターチェンジャブルに使いこなしている感じだ。ちょうどインド人が英語と現地語を行ったり来たりしながら会話をするのと似ている。英語の通用度は首都キエフでも極めて低い一方、外国人観光客とよく接する機会のある人は流暢な英語を話す。町の看板は9割以上がキリル文字で書かれているので、キリル文字が読めた方が旅行しやすい。
キエフ市内の移動は地下鉄が便利だった。1回の乗車につき1律8UAH、約32円。窓口に人がいるので、お金を渡せばトークンをくれる。それを改札機に入れると扉が開く。8UAHでどこまでも行けるため、入場のときには改札があるが、出るときにはない。ラッシュ時、利用客の多い駅構内は一方通行となり、全ての人が一斉に一方向に移動するため、あまりのんびり止まっていられない雰囲気である。周知の事実だが、旧ソ連圏の地下鉄は核シェルターを兼ねているため、地下深くに造られている。キエフの地下鉄もとても深い。特にアルセナーリナ駅は地下105mにあり、世界で一番深い駅として知られている。
他に、バス、トロリーバス、路面電車などの公共交通手段やタクシーがあるが、何と言っても便利なのはUberなどの配車アプリだ。呼び出しも行き先指定も支払いも全てが便利。特にウクライナは英語が通じないので、Uberには助けられた。これに慣れてしまうと、日本でもUberが早く普及して欲しいと思わずにはいられない。東京五輪までに普及させなくていいのだろうか、と心配になる。
ウクライナでは現在、サマータイムが導入されている。日の出は午前5時頃で、日の入りは午後9時頃だ。夕食を食べ終わってもまだ明るく、日がやたら長く感じられる。日が長い分、夜の楽しみ方も幅が広がるので、逆に夜が長くも感じられる。ただ、日本との時差6時間は結構体に応える。ウクライナの午後10時が日本の午前4時なのだ。ウクライナの時間に体が適合してしまっても、日本に戻ったときに大変なので、夜はなるべく早く寝るように心掛けていた。
キエフ観光
以下、キエフとその周辺の観光地について、訪れた場所の所感を書いて行く。多くはガイドブックなどを読めば書いてあるので、詳しくは書かない。なお、7月24日(水)と25日(木)に参加したチェルノブイリ・ツアーとキエフのチェルノブイリ博物館については独立したページを設けたので、そちらを読んでいただきたい。
宿泊地をポディルに決めたのは、いくつかの観光地が近かったからである。まず、キエフで観光客御用達のエリアといえば、ポディルから市の中心部へ上がって行くアンドレイ坂である。ここには土産物や雑貨を売る露店が多数出店し、地元の人々も外国人観光客も買い物や値段交渉、そして単なる散策を楽しんでいる。午後から店が出始め、夕方に掛けて活況を迎える。本当に坂になっているので、下から上まで歩くと結構疲れる。
アンドレイ坂の上にはいくつか観光に値するものが集中している。まず、坂の上には18世紀半ば建設のアンドレイ教会が建っており、撮影スポットとなっている。教会の敷地内に入るには20UAHが必要で、しかも現在建物内部は修復中で入れなかった。ただ、教会は高台に建っているので、そこからはキエフの街並みがよく見渡せた。また、この辺りは既に、かつてキエフを囲んでいた城壁の内部に入り、オールド・キエフと呼ばれるエリアとなる。
アンドレイ教会のすぐ向かい側にはウクライナ歴史博物館がある。まず、博物館の敷地内には、基壇のみだが、989年に建造された東スラブ世界最古の教会の跡が残っており、公園のようになっている。1240年のモンゴル軍襲来時に崩壊したとされている。また、博物館前には窪地があるが、これはキリスト教受容前の信仰に関連する宗教施設らしい。4階建ての博物館内部には、先史時代からウクライナ独立時までの様々な遺物が展示されている。この博物館を見学すると、キエフ大公国(9c-1240年)の首都となったキエフが歴史のある都市であることが分かる。現在、「ロシア=ルーシ」と言うと、モスクワを中心としたロシア連邦を思い浮かべるが、元々はキエフを中心としたこの周辺を「ルーシ」と言っており、モスクワよりも由緒がある。キエフに東スラブ世界最古の教会があったのも、キエフ大公国が初めて988年に初めてキリスト教を国教として導入したからだ。まずは、その確固たる歴史こそが、キエフの魅力の土台になっていることが理解できる。
ウクライナ歴史博物館の近くには、ペイザジナ小道という遊歩道がある。地元アーティストがユーモラスなオブジェを設置したことで、キエフ有数のフォトスポットとなった。それほど広い敷地ではないが、子供が楽しめそうな場所だ。
キエフで必ず訪れるべき名所旧跡といえば、聖ソフィア大聖堂だ。アンドレイ教会からそれほど遠くない。現存するキエフ最古の教会で、11世紀に建造された。様々な変遷を経る中で外壁は改修されている。主ドームが黄金を纏っており、それ以外の12のドームや屋根が緑色をしている。これらが白壁によって強調され、一見すると近現代の建築のように見える。だが、一足内部に踏み入れてみると、内壁には11世紀当時のフレスコ画やモザイク画がかなり保存されており、思わず息を呑む。インドでキリスト教の教会を見たことはあるが、これだけ古い教会はインドになく、1000年前の教会を初めて見た。その結果感じたのは、キリスト教であれヒンドゥー教であれイスラーム教であれ、古い宗教施設には共通のオーラがあることだ。それは人々の祈りの蓄積であり、民族の誇りであり、当地の芸術の集大成である。圧巻だった。聖ソフィア大聖堂はキエフのユネスコ世界遺産の主要な一角を成している。
聖ソフィア大聖堂の周囲にはいくつかの関連施設があり、それらも同時に巡ることができる。特に、入り口にもなっている鐘楼に登ると大聖堂を俯瞰できる。大聖堂の敷地は公園のようになっており、所々にベンチが置かれていて、くつろげそうだ。また、大聖堂の前は広大な広場になっていた。
聖ソフィア大聖堂から徒歩十数分の場所に黄金の門と呼ばれる遺跡が残っている。現在では市街地に埋もれてしまっているが、かつてはキエフを囲う城壁上に点在した門のひとつだった。しかも、この黄金の門はキエフの正門にあたった。大部分が後世の復元だが、中に入るとオリジナルの石垣も残っている。また、この門の上には教会があったとされており、再現されている。
聖ソフィア大聖堂はどちらかというと観光地として一般開放されているが、一方でキエフには、生きた宗教施設として権威を保持している教会もある。ペチェールスカ大修道院である。世界最深の地下鉄駅であるアーセナル駅から徒歩十数分の場所にあり、ドニエプル河沿いの斜面に敷地が広がっている。創建は1051年。周囲を7kmの壁に囲まれており、敷地内には複数の建物が建っている。大きく分けると上の修道院と下の修道院に分かれており、上の修道院の中心はウスペンスキー大聖堂。第二次世界大戦中に旧ソ連によって破壊されたが、2000年に再建された新しい教会である。中を見学していたら、ちょうど10時からミサが始まった。1時間以上続いたが、せっかくなのでずっと見ていた。主ホールに椅子はなく、人々は立ったまま、司祭によって行われる儀式を見守っていた。そして、時々十字を切ったり、床にひざまずいたりしていた。正教会系のミサを見たのも初めてだったが、香炉で煙と香りを漂わせたり、聖書にキスしたりと、イスラーム教の特にスーフィズムと地続きであるように感じた。
下の修道院は、ペチェールスカ大修道院の発祥の地である。ここには地下墓地が広がっており、歴代の修道僧たちが眠っている。そもそも「ペチェールスカ」はウクライナ語で「洞窟」という意味である。洞窟は2つある。近い洞窟と遠い洞窟である。自然の洞窟ではなく、修道僧によって掘られたものだ。中に入ってみると、すれ違うのもやっとの狭い通路が迷路のように広がっている。そして、通路の壁には棺があり、少し広い空間には祭壇がある。参拝客がロウソクを持って洞窟を巡っており、一人一人の修道僧たちに祈りを捧げている。ウクライナでもっとも宗教的熱情を感じた場所だった。
さて、キエフの中心は独立広場である。ウクライナ語で「マイダーン・ネザレージュノスチ」。この中で「マイダーン」とは聞き覚えのある単語で、元々はアラビア語で「広場」を意味し、ペルシア語を介してインドにも入り、よく使われている言葉だ。ウクライナでもこの言葉が使われていることに感動を覚えた。この独立広場は2004年のオレンジ革命や2013年のユーロマイダン革命の広場となったが、今では観光客や地元民が憩う場となっている。天安門広場や赤の広場のようにだだっ広い空間ではなく、幹線道路が横切っており、噴水、芝生や、いろいろなオブジェが設置されている。
また、独立広場を東西に横切っている大通りはフレシチャーティク通りと言い、僕がキエフを散策した限り、この都市の一番の繁華街だ。高級店舗が並び、オープンバーが軒を連ね、道行く人々もファッショナブルである。お土産を買うにも、この通りが一番便利だった。ウクライナ製のオシャレな雑貨や洋服を売るFolkmart、ウクライナを代表するチョコレート会社Roshen、ウクライナのデザイナーたちの作品を集めたVsi Svoi、高級デパートTsumなどがある。また、両替屋も多く、キエフの中ではもっともレートが良かった。少し足を伸ばすとGulliverというデパートなどがあるし、地下にも広大なショッピング街が広がっており、短い滞在ではまだまだ全てを舐め尽くすことはできなかった。
戦略ミサイル部隊博物館
1991年にソビエト連邦は解体し、ウクライナは独立した。そのとき、ウクライナ領内には旧ソ連が所有していた核兵器総量の3分の1となる核弾頭1,700発と、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の地下ミサイル格納庫40基が存在した。なぜウクライナにそれほどの核兵器があったかというと、ウクライナはモスクワから見て西の方角にあり、西側諸国の攻撃の防波堤だったという面もあるが、そもそも旧ソ連の首脳陣はウクライナがいずれ別の国になるとは夢にも思わなかったからだ。1994年にウクライナは核拡散防止条約(NPT)を批准し、領内の核兵器をロシアに返却して、ミサイル格納庫を破壊した。だが、キエフから250km南に位置するポブズケ(Pobuzke)の近くにあった統合発射制御センターは破壊されず、戦略ミサイル部隊博物館(Strategic Missile Forces Museum in Ukraine)として2001年から一般公開された。この博物館は、本物の核ミサイルのスイッチを押せることで有名である。キエフから日帰り圏内にあるが、バスなどの公共交通機関ではアクセスが難しいため、タクシーなどをチャーターすべきだ。僕は旅行代理店に頼んでタクシーを用意してもらい、日帰りした。
午前7時半にホテルを出発し、キエフとオデッサ(Odessa)を結ぶE95線をひたすら南下した。道路は混雑しておらず、順調に道を進んだ。途中、一時的なトイレ休憩を挟み、11時前には当地に到着した。
博物館にはエレナという英語を話すフレンドリーなガイドがおり、彼女が館内をいろいろ案内してくれる。
屋内展示と屋外展示に分かれており、屋内には旧ソ連時代のミサイルシステムの説明や、様々な武器が展示されている。その内の1室は広島と長崎に捧げられている。なぜ広島と長崎の部屋があるのか、エレナに聞いてみたら、核ミサイルをテーマにした博物館において、来訪者に核兵器の恐ろしさを実感してもらうためだ、と答えてくれた。ウクライナでは度々、日本に対する温かい眼差しを感じた。だが、エレナの弁によると、中国人観光客は広島と長崎の部屋で、「日本に原爆を落としたのは良かったんだ」と言うようである。
屋外には、だだっ広い敷地に、ミサイル、戦闘機、戦車、ヘリコプターなどが雑然と展示されている。冷戦を象徴する、核弾頭10発搭載可の大陸間弾道ミサイルR-36(通称サタン)、戦域弾道ミサイルR-12(通称サンダル)、旧ソ連を代表する戦闘機MiG-21、MiG-23やSu-7、旧ソ連の主力戦車だったT-62、旧ソ連製のヘリコプターMi-8などなど。また、ミサイル運搬用の巨大なトラックなども置かれていた。軍事オタクにはたまらないだろう。
だが、これだけだったら、世界各地にある軍事博物館と何ら変わらない。何と言ってもこの博物館の目玉は、核戦争に耐えるために設計された統合発射制御センターであろう。ここに核ミサイルのスイッチもある。これを押すために、キエフから3時間半も掛けてやって来たのだ!
統合発射制御センターは高さ33m、直径3.3mの筒状をしており、核戦争勃発時に爆発や振動に耐えられるように、地下に掘られた縦穴の中空に緩衝器を介して固定されている。12階建てで、この核シェルターに通じる通路を通って行き、分厚い扉を3つ開けると、まずはこのシェルターの屋根の上に出る。そこにはエレベーターが付いており、各階に移動できる。一番下の地下12階が居住区域。寝台、トイレ、ラジオ、テレビ、電子レンジ、サモワール(給茶器)などが備え付けられている。核戦争が起こったとき、45日間、このシェルターの中で生きられるように設計されている。そして地下11階が司令室で、ここに核ミサイルのスイッチがある。
核ミサイルのスイッチを発射するには、まずモスクワからコードを受け取らなければならない。そのために、司令官席のそばには赤い電話が設定されている。司令室には座席が3つあるが、その内の2つが発射係の席だ。それぞれのコントロールパネルの左側にボタン、右側に鍵穴があり、発射係は2人同時に、ボタンを押して鍵を回さなければならない。そうするとコード待機状態になるため、コードを入力する。すると最大10発のミサイルが発射される。もちろん、標的はアメリカ合衆国である。
もう核ミサイルは存在しないが、発射システムはそのまま保存され、作動させることができるため、訪問者はスイッチを押し、核ミサイル発射を疑似体験できる。おそらく世界広しと言えど、一般人が本物の核ミサイル・スイッチを押せる場所はここしかないだろう。世界の運命を自分の指一本に託すことができるのである!ちなみに、ロシアの核ミサイルシステムはこれと同じ仕組みになっており、一般公開されると都合が悪いので、ウクライナに対して破壊するように要求しているようである。
ちなみに、戦略ミサイル部隊博物館には売店も併設されており、旧ソ連時代の軍用品を購入することができる。軍服、帽子、ガスマスク、カメラなどなど、いろいろあるので、ミリタリー好きな人はある程度現金を持って行くといいだろう。僕は旧ソ連時代のガスマスクを500UAHで購入した。
ラドミシル・キャッスル
ウクライナを訪れた主目的は友人の結婚式に出席することであった。結婚式を口実にウクライナという新天地を訪れることができるのも魅力だったが、さらに、友人の結婚式が城で行われるということを聞いて、ますます興味を引かれたのだった。結婚式後、希望者は城に宿泊もできると言う。
会場となったのは、キエフから西に自動車で小一時間ほどの町ラドミシルにあるラドミシル・キャッスル(Radomysl Castle)である。
ラドミシルは、「王の道(Via Regia)」と呼ばれる、ヨーロッパを東西に貫く幹線上に位置する。この幹線は、現在のスペイン、フランス、ベルギー、ドイツ、ポーランド、リトアニア、ベラルール、そしてウクライナを通っており、交易路、巡礼路、そして軍用路として多くの人々が通行してきた。その重要性を反映してか、ラドミシルは元々ユダヤ人の町であった。だが、第二次世界大戦中にドイツに占領され、ホロコーストが行われたため、現在ではほとんどユダヤ人は残っていない。
また、ラドミシル・キャッスルは「キャッスル」と名付けられてはいるが、ガイドの説明をよくよく聞いてみると、厳密な意味での城ではなく、元々は1612年にキエフのペチェールスカ大修道院の僧侶によって建てられた製紙工場であった。教会が製紙工場を建てた理由は、当然のことながら、布教に必要な聖書などの本を印刷するためだ。しかしながら、製紙工場の他に軍事施設としての機能もあったとされている。数十年間は、ウクライナ地域で初の製紙工場として紙を製造しペチェールスカ大修道院に供給していたようだが、17世紀半ばまでには戦乱の中で破壊され、廃墟となった。それから100年以上後の1902年には、ポーランド人技術者が旧製紙工場の建物を再利用して製粉工場を立ち上げた。製粉工場は1989年まで稼働していたようだが、その後は打ち捨てられ、再び廃墟と化し、地元の人々のゴミ捨て場となった。2007年、今度はウクライナ人医師のオルガ・ボゴモレツが建物を買い取り、リノベーションを開始した。そして、2011年から「ラドミシル・キャッスル」として一般開放され、現在に至る。おそらく、「工場」として売り出すより、「城」として売り出す方が受けがいいとの判断からだろう。
ラドミシル・キャッスルは、その落ち着いた外観や、緑と水が気持ちいい庭園もさることながら、その屋内にある、ウクライナ家庭イコン博物館でよく知られている。オルガ・ボゴモレツ医師が個人的に収集したイコンやその他の事物が所狭しと展示されている。イコンとは、簡単に言えば宗教画である。信者たちが信仰の対象とするために、イエス・キリスト、聖母マリアやその他のキリスト教聖者たちの絵が普及していた。中には、コサックたちが使っていた携帯用のイコンもあった。所蔵品の中でもっとも古いのは12世紀後半のものだと言う。
上階にはゲストルームがあり、宿泊できる。アンティークの調度品が置かれており、雰囲気バッチリだ。各部屋には国の名前が付けられている。おそらく「王の道」関連の国であろう。僕はドイツの部屋に泊まったが、グーテンベルクに関するパネルが壁に掛かっていた。
結婚式は、夕方から夜にかけて、城をバックに屋外で行われた。スラブ民族の伝統的な習慣が色濃く残る、素朴だがとてもエネルギッシュな結婚式だった。お幸せに!
ウクライナ料理
滞在期間が長かった訳ではないので、ウクライナ料理についてとやかく言える立場でもないのだが、滞在している間、なるべく積極的にウクライナ料理を食べるようにしていたので、メモ程度ではあるが、ウクライナの食事情について書き留めておく。
ウクライナ料理でもっとも有名なのはボルシチだ。テーブルビートという根菜と野菜や肉を一緒に煮た赤色のスープで、一般にロシア料理として知られているが、元々はウクライナの伝統料理であり、どのウクライナ料理レストランに行っても必ずメニューに載っている。ガーリックパンと一緒に出て来ることが多く、軽食程度にはなる。家庭料理であることを反映してか、レシピは千差万別のようで、店によってかなり味は違った。ウクライナ料理レストランでは基本的に、ボルシチ+メインディッシュという注文の仕方をしていた。
滞在中、2回しか食べなかったが、ヴァレニキもウクライナ料理の代表だ。ポーランド料理のピエロギとほぼ同じ料理で、言ってみれば水餃子である。ただ、中には、肉、野菜、キノコなどを入れる他に、甘いチェリーなどを入れることもある。甘いヴァレニキは口に合わなかった。
ある晩、アンドレイ坂のカナパというウクライナ料理レストランで1,000UAH(4,000円)のフルコース(料理ごとにソムリエ推奨のアルコール付き)を食べてみた。以下のような料理が出て来た。
ウクライナで外食しようとした際、レストランもあるのだが、大衆食堂の選択肢も幅広い。中でもプザタ・ハタと呼ばれる大衆食堂は街の各所にある。実はプザタ・ハタで食事をする機会がなかったのだが、似たようなシステムの食堂では食事をした。どのようなシステムかというと、大学の食堂のようなシステムだ。ガラスのショーケースの中にいくつかの既成の料理が並んでおり、係のおばさんに欲しい料理を指示すると、それを皿によそって渡してくれる。または、自分で料理を選んでトレイに載せて行く。最後にレジがあり、そこでレジ係の人がトレイに載った料理を見て会計をしてくれるので、お金を払う。慣れれば非常に便利だと感じた。
2014年にロシアに取られてしまったが、ウクライナの南、黒海に突き出たクリミア半島には、タタール人というテュルク系民族が住んでおり、彼らの料理は中央アジアのものに非常に近い。キエフにはタタール料理のレストランもある。独立広場のクルィームもそのひとつで、そこでは、麺料理ラグマンや炊き込みご飯プロフを食べた。ウクライナ料理もおいしかったが、はっきり言って、こういう料理の方が口に合った。
また、マクドナルドやケンタッキーなど、外資のファストフードチェーンも他国並みに充実している。今回は1度だけマクドナルドを利用したが、ダブルチーズバーガーセットが100UAH(約400円)だった。日本の物価と比べると高めだ。注文は簡単で、タッチパネルでメニューを選んで注文票をプリントアウトし、それをカウンターの人に渡すだけであった。
飲み物については、ウズヴァルというウクライナの伝統的な飲み物にはまった。ドライフルーツを砂糖煮にした飲み物で、どのウクライナ料理レストランにも置いてあり、飲むと活力が出る感じがする。
総括
事前にウクライナの観光情報について調べていたとき、ウクライナはかわいい小物などがあって女性向けだという記述を目にした。ほとんどキエフのみであるが、今回ウクライナを旅行してみて、確かにヴィシヴァンカなどは魅力的であるものの、男性も十分楽しめる、むしろ男性の方が楽しめる国なのではないか、と感じた。その理由は、何と言っても旧ソ連時代の遺物が多数残っているからである。
その筆頭はチェルノブイリだ。史上最悪の原発事故を起こしたチェルノブイリは、1991年に独立した比較的新しい国であるウクライナにとって、大きな負の遺産となって来た。だが、その名は同時代を生きた全ての人々の脳裏に刻み込まれているはずで、最近では「ダーク・ツーリズム」の名の下に、その現場に実際に行くことができる。知名度があるだけに、観光地としてのポテンシャルは限りなく高い。とりあえずは冒険や廃墟好きな旅行者(多くは男性だろう)にとっての垂涎の的であり続けるだろうが、次第に情報が広まって行き、安全であることが周知されれば、より一般的な観光客も来るようになるだろう。また、今年5-6月にHBOがチェルノブイリのドラマを放映したらしく、それがまた集客につながっているとも聞く。チェルノブイリを訪れるためだけにウクライナを訪れた旅行者もいるほどで、今後ますますチェルノブイリはホットな観光地となって行くだろう。それに加えて、日本人にとっては、福島の将来を考えるためにも、是非一度足を運んでおいた方がいい場所である。
そして核ミサイルのスイッチ。しかも本物である。ロシアから「破壊しろ」と要請されているにもかかわらず、博物館にして公開してしまっているということで、本物であることの信憑性がさらにアップだ。これは男ならば押さずにはいられない。世界広しと言えど、一般人が核ミサイルのスイッチを押せる場所はここウクライナにしかないだろう。これは大変なアドバンテージである。
他にもウクライナには旧ソ連の遺物が多数残されており、徐々に観光地として整備されて来ているようである。現在売り出されているツアーには、旧ソ連時代の戦車GTMUを運転できるもの、Tu-95やTu-160などの旧ソ連製爆撃機のコクピットに入れるもの、スターリンがドニプロ河の下に掘ろうとしたトンネルを訪れるものなどがあり、どれも魅力的だ。ウクライナはナチスドイツに占領されていた時代もあるので、ナチス関連の史跡まである。旧ソ連は金になる。そんなことを感じた。
ちなみに、キエフにはなんとヌーディスト・ビーチがある。首都にヌーディスト・ビーチがある国というのはウクライナが唯一なのではないだろうか。
キエフを存分に楽しみたかったら、Folkmartなどで「Kyiv by locals」というガイドブックを購入するといいだろう。似たような英語のガイドブックが多数出版されているが、デザインなどの面を含めて、この本が一番気に入った。
ウクライナは、日本から近い訳でもないし、日本から直行便もないので、日本人にとっては気楽に行ける国ではないかもしれないが、逆にそれが「ヨーロッパの秘境」感を醸し出していて、魅力的に映る。ヨーロッパ最貧国ではあるが、人々は決して卑屈ではない。卑屈ではないが、傲慢さもなく、人々はとても素朴で優しい。道行く人々は若々しく、活気に満ちあふれている。次期IT大国としてのポテンシャルも持っている。こういう機会がなければ行かなかった国かもしれないが、こういう機会に恵まれて行くことができて、本当に良かったと感じる。また機会があれば是非行きたい国である。