Samarkand (Uzbekistan)

[dropcap]サ[/dropcap]マルカンドとデリー。前者は中央アジアの都市で後者は南アジアの都市である。一見、両者を結びつけるものはない。だが、デリーの歴史を知れば知るほど、サマルカンドは身近に感じられる。

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 アームー・ダリヤー河とスィール・ダリヤー河の間に位置し、ブハーラーと同じくザラフシャーン川の河畔に位置するサマルカンドは、ブハーラーと並んでシルクロード最古のオアシス都市のひとつであった。「サマルカンド」の意味は、ソグド語で「石の町」とされる。サマルカンドは、中国と地中海を結ぶシルクロードの交差点に位置しているだけでなく、ユーラシア大陸の中心部であり、東西南北の交易の要衝として、文化の衝突地として、軍事の拠点として、各時代、大いに栄え、大いに侵略を受け、破壊と復興を繰り返してきた。

 

 その支配層は当初、ソグド人やイラン人だったが、紀元前329年にアレクサンダー大王の東征を受け、ヘレニズム文化の影響を受けるようになる。その後、サマルカンドは、ギリシア系、イラン系、トルコ系、アラブ系各王朝の支配を受けてきたが、11世紀からはセルジューク朝、ホラズム・シャー朝、カラーハーン朝など、トルコ系王朝の支配下に恒常的に入ることになる。このように、様々な民族と文化を受けいれてきたことで、サマルカンドはシルクロードを象徴するコスモポリタン都市として発展した。宗教ひとつをとっても、この頃にはイスラーム教の他、ゾロアスター教、仏教、ヒンドゥー教、マニ教、ユダヤ教、キリスト教が信仰されていたとされる。世界史では、751年、タラス河畔の戦いで捕虜となった唐人の中に紙すき職人がおり、サマルカンドに製紙工場が造られて、製紙技術が西方に伝わったという重要な出来事で、サマルカンドの名前が出てくる。これも、東西文化の合流地であることの強力な証左だ。

 各時代、様々な侵略と破壊を受けてきたサマルカンドだったが、アレクサンダー大王の攻撃の後、もっともインパクトの強い侵略は、チンギス・ハーンによるものであった。1220年、ブハーラーを侵略したチンギス・ハーンはサマルカンドを攻撃し、都市は廃墟と化す。だが、トルコ系のティームール(1336-1405年)が首都と定めたことで繁栄を取り戻す。1500年にはトルコ系ウズベク人の王朝であるシャイバーニー朝の支配下に入り、当初サマルカンドは首都となるが、すぐにブハーラーに遷都され、この王朝は特にブハーラー・ハーン国と呼ばれるようになる。一方、首都の地位を失ったサマルカンドは衰退したと伝えられる。1867年にはロマノフ朝(帝政ロシア)の支配下に入り、トルキスタン総督府サマルカンド州の州都となる。そして1925年にウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となるが、すぐに首都はタシュケントへ移される。ソ連崩壊に伴い、サマルカンドは新国家ウズベキスタンのサマルカンド州州都となる。現在、人口は60万人。首都タシュケントに次ぐ、ウズベキスタン第二の都市である。

 サマルカンドとデリーの接点となる出来事は、1398年のティームールによるデリー侵略である。アフガーニスターンや西アジアを支配下に置いたティームールは矛先を南アジアへ向け、デリーに進撃した。当時、デリーはトゥグラク朝が支配していたが、支配権が分裂して弱体化しており、ティームールの侵略にまともに立ち向かえなかった。ティームールはデリーに15日間滞在したが、その間、デリーは殺戮と略奪と破壊に遭った。そして、捕虜となった何千人ものデリーの大工や石工たちは、サマルカンドへ送られた。ティームールは、侵略した都市で職人たちを捕らえ、サマルカンドやシャフリサブズへ送って、建造物を造らせていたが、その中にはデリーで捕らえられたインド人職人も多数入っていたのである。

 サマルカンドとインドのつながりはそれだけに留まらない。16世紀からインドの大部分を支配したムガル帝国の歴代皇帝は、サマルカンドの奪還を夢見ていた。元を辿れば、帝国の祖バーバル(1483-1530年)は現ウズベキスタン東部フェルガーナの出身であり、ティームールとチンギス・ハーンの血を引いていた。彼はティームール帝国再興を夢見て、若い頃にサマルカンドを3回奪取するものの、その都度失い、最終的にはアフガーニスターンに逃れる。そこからインドに進出し、ムガル帝国を築き上げたわけだが、歴代のムガル皇帝はバーバルの夢を忘れておらず、機会があればサマルカンドを手に入れたいと願っていた。シャージャハーン(在位1628-1658年)はアフガーニスターンのカンダハールを手中に収めた後、実際にその夢を実行に移し、1646年、ムラード・バクシュ王子をサマルカンドへ送る。しかし、ムラードはテルメズ(現ウズベキスタン最南端の都市、アフガーニスターンとの国境の町)まで軍を進めるものの、勝手に引き返してしまう。翌年、今度はアウラングゼーブ王子が派遣されるが、やはり大した戦果を上げられずに帰還することになる。この後、ムガル帝国はイランのサファビー朝にアフガーニスターンを奪われ、二度とサマルカンドをうかがえなくなる。

 現在、サマルカンドに残る遺跡は、ほとんどがティームール以後に建造されたものである。サマルカンド市街地の東側に「アフラースィヤーブの丘」という広大な丘陵地帯があるが、チンギス・ハーン侵略以前のサマルカンドはこの丘の上にあったとされている。よって、現在のサマルカンド市街地に残る遺跡は、必然的にそれ以後に造られたものとなる。アフラースィヤーブの丘にはチンギス・ハーン来襲以前の建物などはほとんど何も残っていないが、少しだけ城壁が残っている部分がある。おそらく丘を城壁で張り巡らし、防御していたのであろう。この城壁跡からはサマルカンド市街地を展望できる。

アフラースィヤーブの丘の城壁跡とサマルカンド市街地

アフラースィヤーブの丘の城壁跡とサマルカンド市街地

 アフラースィヤーブの丘の発掘調査で出土した出土品などは、この丘の上にあるアフラースィヤーブ博物館に展示されている。最大の見所は、博物館中央の部屋に展示されている7世紀の壁画である。ソグド人の王が外国人使節を迎えている場面を描いたもので、中には中国人のものと思われる絵もある。当時からサマルカンドには多くの国々から人々が訪れていたことが分かる。他に、ゾロアスター教の甕棺墓などが展示されており、興味深い。

ソグド人の壁画

ソグド人の壁画

 アフラースィヤーブの丘はおそらく、丘の下の平地に新たに市街地が造られた後も宗教的な重要性を持ち、サマルカンド市民の信仰を集めていたに違いない。この丘にはいくつか古い宗教的な起源を持つスポットがいくつかある。まず気になったのは、サマルカンド市街地を見下ろす小高い丘の上に立てられた、こぢんまりとしたモスク、ハズラト・ヒズル・モスクである。

ハズラト・ヒズル・モスク

ハズラト・ヒズル・モスク

 現存するモスクの建物自体は1854年のもので、それほど古くない。どうやら元々ゾロアスター教の寺院があった場所に建てられたようだが、あり得る話である。ここに最初にモスクが建てられたのは8世紀初めのこととされているので、サマルカンドにアラブ人がイスラーム教を携えてやってきてすぐに建てられたことになる。宗教的に非常に重要な場所だったのだろう。

 気になったのはこのモスクの名前である。ハズラト・ヒズルといえば、イスラーム世界において一種の神秘的な聖人として信仰されている存在で、古くはコーランにも言及があると考えられている。不老不死の力を与えられており、アッラーがこの世界を創造する前から現在に至るまでずっと生きている。水の守護者であると同時に旅人の守り神であり、ムーサー(モーゼ)の指導者やアレクサンダー大王の案内役にもなったとされる。なぜこのモスクがハズラト・ヒズルの名前を冠しているのだろうか。その謎は解けなかった。しかし、サマルカンドでもっともスピリチュアルな場所である可能性が非常に高い。

 残念ながら訪れたときは、内部は写真撮影禁止となっていた。なぜなら、2016年9月2日に亡くなったイスラーム・カリモフ前大統領がここに葬られたからである。カリモフ前大統領はウズベキスタン独立から25年にわたってずっと大統領職に就いていた。欧米諸国からは人権弾圧や選挙不正などを行う独裁者と評されることもあった一方、高い経済成長率を成し遂げ、国内イスラーム過激派の抑え込みにも成功しており、その評価は割れている。彼はサマルカンド出身であり、しかも実家はアフラースィヤーブの丘のすぐそばだったため、死後はこのモスクの境内に葬られることになった。以後、ウズベキスタン各地から弔問客がひっきりなしに訪れるようになり、ここは観光地として開放された場所ではなくなった。その状況を見る限り、たとえ外国から独裁者と糾弾されようとも、カリモフ前大統領は大多数の国民から慕われていたように感じられる。ちなみに、ウズベキスタンの現在の大統領は、カリモフ政権下で長く首相を務めたシャウカト・ミルズィヤエフであり、政権継承はスムーズに行ったようである。

 アフラースィヤーブの丘には、「ダニエル廟」とされる場所もある。ダニエルとは旧約聖書に登場する預言者の一人で、機知に富むユダヤ人男性として描写されている。イスラーム教ではダーニヤールと呼ばれている。実は、ダニエルの墓とされる史跡は、イランのスーサにも存在する。言い伝えによると、ティームールがイランに侵攻したとき、スーサからダニエルの遺体を奪ってサマルカンドまで持ち運んだらしい。元々、ダニエルの墓はサマルカンドにあり、イランに奪われたものをティームールがまた奪い返したという話もあり、どこまでが本当はよく分からない。ダニエルの遺体は毎年半インチ(1.27cm)成長するとされているため、彼の墓は18mの長さがある。だが、ダニエルが死んでから2500年ほど経過しているため、単純計算すると30m以上延びたことになる。さらに倍の長さにしなくてはならないのではなかろうか。

ダニエル廟

ダニエル廟

 サマルカンドで唯一、ティームール時代以前から存在する建物は、やはりアフラースィヤーブの丘に存在する。現在、シャーヒ・ズィンダーと呼ばれる墓廟群になっている地区が丘の南端にあるが、その中心部にあるのが11世紀建造のクサム・イブン・アッバース廟である。シャーヒ・ズィンダーの解説は後にして、まずはこの廟の意義について説明したい。

クサム・イブン・アッバース廟

クサム・イブン・アッバース廟

 クサム・イブン・アッバースは預言者ムハンマドの従兄とされる人物で、7世紀にサマルカンドを訪れ、イスラーム教を広めたといわれている。当時はゾロアスター教徒の勢力が強く、彼は目の敵にされ、ある日、礼拝している最中に首を切られてしまう。ところが、クサムは絶命するどころか全く動じず、礼拝を終えると、自分の首を持ったままその場を立ち去り、井戸の中に隠れた。このような不思議な力を持ったクサムは今でも生きていると信じられており、シャーヒ・ズィンダー(生きた王)という名で呼ばれるようになった。

廟内部

廟内部

 クサム・イブン・アッバース廟は生きた信仰スポットとなっており、地元の人々が礼拝に詰め掛けている。シャーヒ・ズィンダーには多くの廟が並んでいるが、これらはクサム・イブン・アッバースにあやかって後世に造られたものだ。クサム・イブン・アッバース廟に通じる参道の両脇に廟が二列に並んでいるイメージである。その多くはティームールとウルグベーグが家族や親戚のために造ったものだ。外壁も内壁も繊細な模様で装飾され、美しい。

シャーヒ・ズィンダー

シャーヒ・ズィンダー

 アフラースィヤーブの丘は、これら歴史的な廟建築がある他、現代ウズベキスタン人たちの墓所にもなっている。肖像画付き墓石がトレンドのようで、ユニークな形の墓も多いと聞く。シャーヒ・ズィンダーの観光後、時間に余裕があれば、クサム・イブン・アッバース廟よりも奥にある、現代人の墓地も散策すると面白いだろう。

 さて、シャーヒ・ズィンダーからサマルカンド市街地の方角を眺めると、巨大な建造物が見える。これが、かつて世界最大規模を誇った巨大モスク、ビービー・ハーニム・モスクである。いよいよ、ティームールが築き上げた帝国の首都の名残を見ていくことにする。

ビービー・ハーニム・モスク

ビービー・ハーニム・モスク

 ビービー・ハーニム・モスクは、インド遠征から凱旋したティームール自身が建造を命令したともいわれるし、彼の妃の一人ビービー・ハーニムがティームールを驚かせるために彼の留守中に造らせたともいわれている。ただ、ティームールの自伝では、デリー攻略後、「首都サマルカンドに、どの国にも匹敵するものがないような金曜モスクを建造することを決めた」という記述があり、それがこのモスクなのではないかと思われる。また、バーバルの自伝でもこのモスクは「インドの石工たちを使ってティームールが建造した」と書かれている。完成はティームールの死の直前の1404年である。

ビービー・ハーニム・モスク

ビービー・ハーニム・モスク

 かつて中央アジア最大規模を誇ったモスクだけあり、その巨大さにはただただ圧倒される。敷地の広さもそうだが、まずは正面玄関の大きさ!シャフリサブズの、崩壊してしまったアク・サラーイ宮殿跡に匹敵する巨大さである。そして大きさばかりに目が奪われてしまうのだが、よくよく目を凝らして見ると、細部まで細かい模様が入っている。ただ、ムカルナス(持ち送り構造の装飾)がなく、質実剛健な印象を与える建築である。妃の名を冠したモスクではあるが、男性的である。

正面玄関

正面玄関

 中庭は三方をドーム付きイーワーン(ホール)に囲まれ、礼拝堂である正面奥の建物がもっとも巨大である。中庭の中心部にはコーランを置くための大理石の書見台が置かれているが、これもまた巨大である。ティームールの息子シャールフもしくは孫ウルグベーグが設置したとされるもので、ティームールがダマスカスから奪った7世紀のコーランが置かれていた。このコーランは現存世界最古と認定されており、今でもタシュケントに存在する。

中庭

中庭

 しかし、600年以上前からこのような美しい姿を保っているわけではない。相当な修復を経た結果、現在の姿がある。モスクの中庭には昔の写真が無造作に置かれていた。それを見るとほとんど崩れ落ちており、完全なる廃墟である。また、表側はきれいに修復されているものの、中まで見てみると、装飾は全てはがれ落ちているし、壁や天井も今にも崩れ落ちそうな状態だった。

昔の写真

昔の写真

 サマルカンドに、世界に比類のないモスクを造ろうとしたティームールが、何とか死の直前に完成させたこのモスクは、どうやら設計や工事に無理があったらしく、完成間もなく自然に崩壊が始まったと伝えられている。とはいっても、シャールフやウルグベーグが設置した書見台があるということは、彼らの治世である15世紀前半にはまだモスクとして機能していたのではなかろうか。ビービー・ハーニム・モスクは1897年の地震で完全に倒壊するが、1970年代に再建された。サマルカンドの他の遺跡も似たような経緯をたどって現在の姿となっているので、注意が必要である。

礼拝堂内部

礼拝堂内部

 ティームールは当初、自身の墓を生まれ故郷であるシャフリサブズに造ろうとしていた。だが、実際に彼が葬られたのは、孫のムハンマド・スルターンの廟として造られた建物だった。ムハンマド・スルターンは、ティームールの正室から生まれたジャハーンギールの長男であり、ジャハーンギールの死後、後継者と目されていた。しかし、1403年、ティームールより先に戦死し、彼の建造したマドラサのあった場所に葬られたのだった。

アミール・ティームール廟

アミール・ティームール廟

 ティームールが葬られたこの建物は、現在、アミール・ティームール廟もしくはグーリ・アミール廟として知られている。サマルカンドの市街地の中に位置している。ひとつのドームを抱く建物を、2本の塔が挟む形である。ここには、ティームールとムハンマド・スルターンの他に、ティームールの師匠でスーフィー聖者のミール・サイード・バラカ、第3代君主シャールフ、第4代君主ウルグベーグ、ティームールの三男ミーラーン・シャーなどの墓がある。中央アジア式の墓なので、地上には偽の墓石が置かれ、地下に本物の棺が置かれている。当初の計画より墓の数が増えすぎたため、墓室の正面入り口は閉ざされてしまい、横の部屋から入り込む形になっている。

廟内部

廟内部

 やはり近年になって徹底的に修復作業が行われており、もはや「遺跡」とはいえないレベルである。内壁には3kgの金を使った装飾が施され、しかもライトアップされているため、この世のものと思えないほど美しい。肝心のティームールの墓石は中央部にある黒いものである。軟玉(ネフライト)という鉱物でできた特別な石で、生前のティームールのお気に入りだったといわれる。この地下には墓室があり、ティームールの本当の棺がある。以前は観光客に開放されていたらしいのだが、現在では閉ざされている。

ティームールの墓石

ティームールの地上墓石

 ティームールの棺には、「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」という、ノストラダムスの大予言を思わせる警告文が刻まれている。18世紀にアフシャール朝のナーディル・シャーがティームールの墓石をイランに持ち帰ろうとしたときがあったが、あらゆる不幸に見舞われたため、サマルカンドに返したという出来事があった。このとき、誤って墓石を地面に落とし、それは2つに割れてしまった。ソ連時代の1941年には、頭蓋骨復顔の第一人者ミハイル・ゲラシモフが呪いを恐れずにアミール・ティームール廟の棺を開けた。6月16日、彼はまずミーラーン・シャーとシャールフの棺を開け、調査を行った。次に、6月18日、彼はウルグベーグの棺を開けた。そして最後にティームールの棺を開いたのが6月20日だった。果たして、その呪い通り、6月22日にナチス・ドイツがソ連に侵攻した。このとき、2,000万人以上が殺されたという。だが、1942年11月頃に戦局は変わり、ソ連はスターリングラードでナチスの進撃を食い止めることに成功した。偶然の一致か、ちょうどのこのとき、スターリンはティームールの遺体をサマルカンドに返し、丁重に再埋葬していたという。

塔外壁模様の拡大図

塔外壁模様の拡大図

 ところで、サマルカンドはティームールが首都と定めて開発して以来、相当変わってしまったので、なかなか昔の姿を想像しにくい。だが、バーバルの時代のサマルカンドの地図をネット上で見つけたので、それが参考になりそうだ。

バーバルの時代のサマルカンド

バーバルの時代のサマルカンド Silk Road Seattle

 アフラースィヤーブの丘の南西に城壁で囲まれた新サマルカンドが建造されており、その西にさらに城壁で囲まれたシタデル(城塞)が見える。このシタデルは現在では跡形もないが、バーバルの自伝によると、中に4階建ての壮大な宮殿があったようだ。アフラースィヤーブの北端をスィヤーブ川が流れ、そのさらに北にザラフシャーン川が流れている。スィヤーブ川からは用水路が引かれ、サマルカンド城壁の東を流れている。オアシスの町というと、泉が湧いているようなイメージだが、サマルカンドは川のおかげで生まれた町のひとつといえよう。上で紹介したビービー・ハーニム・モスクとアミール・ティームール廟は城壁内に位置している。ビービー・ハーニム・モスクとアフラースィヤーブの丘の間には「鉄の門」があったようだが、これも今では全く見当たらない。

 サマルカンドの城壁の中心部にレーギスターンという地名が見える。これこそがサマルカンド市街地の中心部であり、現在でも同様の地位を保っている。同時に、サマルカンド観光のハイライトである。

レーギスターン

レーギスターン

 「レーギスターン」とはペルシア語で「砂の地」「砂漠」を意味する。ブハーラーでもアルクの前はレーギスターンと呼ばれていた。「広場」ぐらいの意味合いで捉えればいいだろう。かつてこの場は6本の道路が交差する広場になっており、市場が立っていた。その広場を取り囲むように3つの巨大なマドラサ(神学校)が造られたため、ユニークな景観となり、サマルカンドの象徴的光景として世界に知られるようになった。

夜のライトアップ

夜のライトアップ

 まず最初に造られたのは向かって左側のウルグベーグ・マドラサである。1420年の建造で、2本のミーナールを脇に従えた巨大なイーワーンが印象的な建物だ。50の部屋があり、100人の寄宿生が学んでいた。ウルグベーグは学者肌の統治者で、学業を大いに振興した。このマドラサはその中心であり、イスラーム世界随一の学校としてその名を轟かせた。当世一流の学者が教壇に立ち、ウルグベーグ自身も数学を教えたという。彼の業績は天文学の分野で飛び抜けているが、その趣向を繁栄して、このマドラサの入り口には星を象った模様が描かれている。ウルグベーグは敬虔なイスラーム教徒ではあったが、学問的な興味は神学から外れていたようで、このマドラサで教えられていた科目は、「神学校」といえど、天文学、数学、薬学などの自然科学が中心だったとされる。例によって現在、内部はお土産屋コンプレックスとなっている。また、このマドラサのミーナールには上ることができる。

ウルグベーグ・マドラサ

ウルグベーグ・マドラサ

 レーギスターンに建っていたマドラサは、以後200年ほど、このウルグベーグ・マドラサだけだった。ウルグベーグはマドラサの正面、広場の東にハーナカー(修験場)、広場の北にキャラバンサラーイを造った。しかし、17世紀に入り、サマルカンドを支配していたブハーラー・ハーン国の太守ヤラントゥシュがレーギスターンを再開発し、ハーナカーとキャラバンサラーイを取り壊して、代わりに2つのマドラサを建てた。まず、ウルグベーグ・マドラサの正面にあるのがシェールダール・マドラサ。建造は1636年。ウルグベーグ・マドラサを模倣して造ったといわれており、その構造はよく似ている。違いはタマネギ型ドームがあるかないかぐらいだ。

シェールダール・マドラサ

シェールダール・マドラサ

 シェールダール・マドラサの特徴は、その名「獅子の神学校」が示す通り、イーワーンに描かれたライオンの絵である。イスラーム教では偶像が禁止されているにもかかわらず、神学校に堂々と絵を描いている。一応、「架空の動物なら偶像にはあたらず、タブーを破ったことにならない」という言い訳があったようだ。よく見るとライオンが顔のついた太陽を背負っている。そんなライオンも太陽も存在しないということだろうか。獲物については単なる鹿に見えるが。ブハーラーにも同様に絵の描かれた神学校がある。1622年建造のナーディル・ディーワーンベーギー・マドラサである。17世紀前半には、敢えてタブーに挑戦する風潮がブハーラー・ハーン国でトレンドになったのかもしれない。

ライオンの絵

ライオンの絵

 同じヤラントゥシュによって1660年に建造されたのが、ウルグベーグ・マドラサとシェールダール・マドラサの間にある、ティッラーカーリー・マドラサである。その意味するところは「金箔貼りの神学校」である。レーギスターンではこのマドラサだけデザインが異なり、左側のみにあるドームがシンメトリー性を壊している。このドームは西の方角を向いており、モスクになっている。

ティッラーカーリー・マドラサ

ティッラーカーリー・マドラサ

 だが、このモスクにこそ、「金箔貼りの神学校」の真価が隠されている。モスクの内装には大量の金箔が用いられ、美しく輝いている。今ではアミール・ティームール廟も同様の装飾をされているが、使用されている金の量は比べものにならない。サマルカンドの繁栄を象徴する空間である。ただ、これにも修復された後の状態である。

モスクの内装

モスクの内装

 ティッラーカーリー・マドラサでは、サマルカンドにある遺跡の昔の写真が展示されたギャラリーがある。レーギスターンをはじめ、多くの遺跡がかつてどれほどみすぼらしい姿だったか、そしてそれらがいかに変貌を遂げて現在の美しい姿となったか、一見の価値がある。

 最後に、サマルカンド近郊の見所をひとつ紹介しておく。先ほどウルグベーグは天文学者だと書いた。ウルグベーグは天文台を自前で用意するほどの天文マニアであり、当時世界最高水準の天文表を作成したことで知られている。その天文台の位置は長らく謎とされていたのだが、1908年、ロシア人アマチュア考古学者ヴィヤトキンによって、アフラースィヤーブの丘の北東にある丘の上で発見された。現在はウルグベーグ天文台跡として観光地化されている。

ウルグベーグ天文台跡

ウルグベーグ天文台跡

 この天文台は、ウルグベーグ・マドラサが建造されたのとちょうど同じ1420年代に完成したとされる。元々は円柱型の建築物だったようで、現在残っているのは、その地下にあった巨大な象眼儀(四分儀)である。子午線にそって地下にアーチ状の溝が設置されており、その上に器具を固定して、太陽の南中を観測した。この器具を用いることで、毎日の正午の正確な時刻を計算することができたという。また、ウルグベーグは1年の長さを365日6時間10分8秒と算出したが、現在知られている365日6時間9分9.6秒とは誤差1分以内という、かなり正確に近い値を求めることができていた。ウルグベーグの業績はヨーロッパにも紹介され、その後の天文学の発展に大いに寄与した。

地下象眼儀跡

地下象眼儀跡

 ただ、ウルグベーグの研究はあまりに先進的で、敬虔なイスラーム教徒にとっては異端であった。最後にウルグベーグは、保守的なイスラーム教徒たちにそそのかされた自分の息子に殺されてしまう。ウルグベーグの天文台も、彼の死後破壊され、ヴィヤトキンによって発見されるまで地中に埋もれていたのだった。

ウルグベーグ天文台復元模型

ウルグベーグ天文台復元模型

 だが、学問を振興し内政に尽力した彼の業績は忘れ去られることなく、現在のウズベキスタンでは、ティームールに次いで尊敬されている歴史的人物と評することができる。ウルグベーグ天文台跡には小さな博物館があり、彼の業績が分かりやすく展示してある他、天文台跡へ上がる階段の下には、大きなウルグベーグ像も設置されている。

ウルグベーグ直筆の文書

ウルグベーグ直筆の文書

 中央アジアの雄ティームールが世界に名だたる都市として築き上げたサマルカンド、そしてバーバルが生涯奪還を夢見て果たせなかったサマルカンド。天候に恵まれ、「青の都」としての美しさを存分に楽しむことができたが、その美しさは過激な修復作業によるものだった。その程度は「もはや遺跡ではない」と感じられるほどだ。ここまで修復してしまっては、ディズニーランドの建物と変わりなくなってしまわないか。いかにみすぼらしくても、崩れかかった姿の方に愛着を感じるのは、いかにも日本人的な「わびさび」の精神で、世界標準ではないのだろうか。その点ではまだインドの遺跡の方が、修復が遅れている分、オリジナルの姿を楽しむ余地が残っている。

2017年1月17日 | カテゴリー : 旅誌 | 投稿者 : arukakat