[dropcap]ウ[/dropcap]ズベキスタンには4つの世界遺産があり、その内のひとつがこのヒヴァ(Khiva/Xiva)に残るイチャン・カラだ。ただ、ヒヴァは他の3つの世界遺産(ブハーラー、サマルカンド、シャフリサブズ)から離れており、日程に余裕のある観光客のみが訪れる。我々も2年前の旅程ではヒヴァを抜かしていた。だが、今回実際に訪れてみて、せっかくウズベキスタンを訪れるならば、ヒヴァを観光しない手はないと感じた。それほど魅力的な町だった。
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ヒヴァは、ホラズム州の州都ウルゲンチ(Urgenchi)から35kmほどのところにある。隣国トルクメニスタンとの国境はすぐそこであり、ウズベキスタンの中では僻地にあたる。タシュケントからは飛行機が一番便利で、最寄りのウルゲンチ空港まで2時間かからないくらいだ。ウルゲンチからヒヴァまでは懐かしのトロリーバスが走っており、運賃が安いのでバックパッカーに人気とのこと。ただ、1~2時間かかり、停電があると止まってしまう。トロリーバスはウズベキスタンでもここしか走っていないそうだ。我々は専用車での移動だったので、3-40分でヒヴァまで着いた。
ヒヴァは、アームー・ダリヤー河の肥沃なデルタ地帯に位置するオアシスの町である。伝説によると、ノアの息子セムがこの地においしい井戸を発見したことから町が始まったという。セムはその井戸の水を飲んで「ヘイヴァク!(素晴らしい!)」と叫んだが、これが「ヒヴァ」の語源となったそうだ。アムーダリヤー河の下流域はホラズム(太陽が昇る地)と呼ばれ、かつて中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたホラズム・シャー王朝(1077-1231年)の拠点ともなった。しかし、ホラズムの中心地を担って来たのはヒヴァではなく、主に現トルクメニスタンに位置するクフナ・ウルゲンチ(世界遺産)であった。ヒヴァには考古学的に少なくとも1500年以上前からの人の居住の形跡が見受けられるが、ヒヴァが歴史の表舞台に登場するのは17世紀にヒヴァ・ハーン国(1512-1920年)の首都となってからだ。ヒヴァ・ハーン国は、周辺のライバル国との戦争や侵略、国内の民族の蜂起などに直面し、ペルシアやロシアの保護国になりながらも、20世紀まで存続した。ヒヴァに残る遺跡は比較的新しく、主に19世紀から20世紀初めにかけて作られた建築物が多い。ヒヴァの産業として悪名高かったのが奴隷売買である。ヒヴァの支配層はシルクロードを通過する旅人などを襲って奴隷とし、市場で売りさばいた。おかげでここには中央アジア最大の奴隷市場が形成された。ロシア人奴隷も多く、それがロマノフ朝(帝政ロシア)の介入を招いたといわれている。
ヒヴァはイチャン・カラ(内城)とディシャン・カラ(外城)に分かれる。イチャン・カラは高さ10mの泥の壁で囲まれた長方形の区画で、広さは約26ヘクタール。城壁には外に向けて傾斜がつけられ、いくつもの側防塔が突きだしている。城壁の傾斜部に墓が造られているのはユニークだ。イチャン・カラには東西南北4つの門があり、その内部は中世の町並みがよく保存されている。1990年に世界遺産に登録された。イチャン・カラを囲むようにもうひとつ城壁が張り巡らされており、この内側をディシャン・カラと呼ぶが、現在はイチャン・カラほど遺構が残っていない。ヒヴァ観光のメインもイチャン・カラである。ちなみに、「カラ」とはヒンディー語の「キラー(城)」と同語源の言葉である。
イチャン・カラ内部には東西南北どの門からでも入れるが、一応正門扱いとなっているのはオタ・ダルワーザと呼ばれる西門だ。ここでチケットなどを購入できる。クリスマス・シーズンだったので、オタ・ダルワーザの前には大きなクリスマツツリーが立てられ、地元の人々が集まっていた。一方、我々の宿泊したアジア・ヒヴァはターシュ・ダルワーザ(南門)のすぐ前だった。こちらの門は常に閑散としていたが、自動車の通行が可能であった。北のバフチャ・ダルワーザの前にはトロリー・バスが通っている。こちらの門も自動車通行可であった。また、バフチャ・ダルワーザの近辺から城壁に上れる階段があり、そのままオタ・ダルワーザ近くまで歩いて行ける。先ほど写真を紹介したパハルワーン・ダルワーザは東門で、この門は人のみ通行可であるが、市場に面しているため、往来は活発であった。
西のオタ・ダルワーザと東のパハルワーン・ダルワーザを結ぶ道路がイチャン・カラのメインロードで、観光もこの道路が中心となる。まず、オタ・ダルワーザを入ってすぐに目に付くのは、緑色のタイルで装飾されたカルタ・ミーナールという美しい塔だ。ただ、これは未完の塔と呼ばれており、高さ26mほどの基壇部分しかない。1852年にヒヴァ・ハーン国の王ムハンマド・アミーン・ハーン(1817-1855年)によって着工された。元々の計画では100m以上の高さになる予定だったが、ハーンの戦死により工事は中断し、それ以上の高さになることはなかった。デリーのクトゥブ・コンプレックスにも、アラーイー・ミーナールという、途中で工事が中断した巨大な塔の遺構が残っており、それを彷彿とさせた。
カルタ・ミーナールは、ムハンマド・アミーン・ハーン・マドラサの付随した塔だ。これは同じハーンによって建設された神学校で、かつては中央アジア最大規模を誇ったという。現在はホテルになっているが、オフシーズン中は休業である。よって、中に入れなかった。
ムハンマド・アミーン・ハーン・マドラサの正面には、高い壁で覆われた一角がある。クフナ・アルク(古い宮殿)と呼ばれる歴代ハーンの宮殿跡である。元々12世紀に建造された建物だったが、17世紀以降に増築され、ほぼ現在の姿となった。東側に入り口があり、中に入ることができる。宮殿内にはいくつか建物があるが、入り口を入ってまず右手にあるのは、1838年建造の夏のモスクである。6本の細い柱が高い天井を支えており、三方を壁に囲まれ、北向きに開いている。ウズベキスタンから見るとメッカは南西の方角なので、方向はそんなに間違っていないが、開口部が北に向いているのはむしろ、北からの涼しい風を取り込むためだという。柱は木製だが、基部のみは大理石でできている。ウズベキスタンの遺跡は皆そうなのだが、地面から水がしみ出してきて建物を侵食するため、このような工夫が必要となる。壁は青を基調とした幾何学模様のタイルで装飾され、いかにも涼しげだ。天井もビッシリと装飾されているが、こちらは赤を基調としている。
クフナ・アルクの入り口を入って直進すると、今度は謁見の間がある。やはり北向きに開いた天井の高いホールで、こちらは2本の柱で支えられている。ホール前の広場にはテントを張るための台が残っているのが特殊である。ヒヴァ・ハーン国には多様な民族がおり、遊牧民もいたため、彼らに配慮してテントを張れるようにしたのだと聞く。やはり壁は青系、天井は赤系の装飾で埋め尽くされている。
クフナ・アルクには見張り台がくっついており、追加料金を払えば上に上がってイチャン・カラを一望することができる。ヒヴァ滞在中は天候に恵まれなかったため、絶景とまではいえなかったものの、中世の町並みが残るヒヴァを見渡せる場所があるのは貴重である。
メインロードまで戻って、パハルワーン・ダルワーザの方へ向かうと、カルタ・ミーナールとは別の、レンガ造りの塔が見えてくる。高さは47m。この塔の下にあるのがジュマ・モスク、いわゆる金曜モスクだ。イスラーム教徒にとって金曜日は集団礼拝の日で、イスラーム都市には必ず集団礼拝をする金曜モスクが造られる。言わば、町の中心である。塔はこのジュマ・モスクに付随のもので、一般にジュマ・ミーナールと呼ばれる。ただ、土足で入場可だったため、おそらく観光地としての性格が優先され、モスクとしての機能は失っているはずである。
ジュマ・モスクはヒヴァでもっとも古いモスクであり、10世紀の建造とされている。アラブ式の多柱モスクで、218本の木製の柱が天井を支えている。柱のデザインは1本1本異なる。内部は暗いが、数カ所の採光窓から光が差しており、神秘的な雰囲気を醸し出している。後に増築を繰り返しているが、建造当初から残る柱も何本かある。インドから持って来られた柱もあるそうだ。モスクの内部から塔の上に上ることができるが、別料金である。ちなみに、このジュマ・モスクに入った瞬間、デリーのクトゥブ・コンプレックスにあるクッワトゥル・イスラーム・モスクを思い出した。構造がよく似ている。
ジュマ・モスクからさらに東へ行くと、東門であるパハルワーン・ダルワーザにたどり着くが、この辺りはマドラサが密集している。三叉路を北に折れてマドラサの間を進んで行くと、左手にターシュ・ハーウリー・サラーイの入り口が現れる。四方を高い壁で囲まれた堅牢な建物だ。だが、外観とは異なり、中はヒヴァでもっとも美しく装飾されている。この堅牢さと壮麗さには理由がある。ここには、ヒヴァ・ハーン国が最盛期を迎えたときの支配者アッラー・クリー・ハーン(在位1825-42年)のハーレムが置かれていたのだ。
1830-38年に建造されたこの宮殿には、木柱で高い天井を支えられた5つのホールが横一列に並んでいる。一番東側のものが一番大きく、残りの4つは小さい。一番大きいものがハーンの部屋であり、他の4つはハーンの正妻たちのもの。ハーレム内にはその他にも側室たちの部屋が100部屋以上ある。正妻たちの部屋をそれぞれよく見てみると、面白いことに、天井のイメージカラーが異なる。一番東側は茶系の色を基調とした渋いデザイン、その次は黄色と黄緑色が主体のカワイイ系のデザイン、その次はオレンジと緑色を織り交ぜたオシャレなデザイン、最後はショッキングピンクに近い派手なデザインとなっており、それぞれの部屋の主の性格を表していそうである。
中を見終わってから、もう一度この建物の外観を眺めてみると、無骨なデザインの中に遊び心が込められているのを発見した。壁の上部を飾るタイルがひとつひとつ違うのである。
今度はジュマ・モスクまで戻り、南に延びる道を進むと、またも高い塔が見えてくる。イチャン・カラの3本目の塔であり、もっとも高い塔である。高さは57m。この塔の下にあるがイスラーム・ホージャー・マドラサという神学校であり、ヒヴァ・ハーン国の最後のハーン、イスファンディヤール・ハーン(在位1910-1918年)の大臣イスラーム・ホージャーによって1910年に建造された。当然、神学校としての機能は失っており、内部は博物館になっている。追加料金を払えば、この塔にも上ることができる。
イチャン・カラの中で唯一、宗教的性格を失っていないと思われるのが、パハルワーン・マフムード・マクバラという聖者廟である。イスラーム・ホージャー・マドラサの西に位置している。パハルワーン・マフムード廟にはパハルワーン・マフムード(1247-1326年)という聖者が眠っている。「パハルワーン」とはヒンディー語の「ペヘルワーン」と同義であり、「力士」「力持ち」という意味だ。その名の通り、彼は「クラッシュ」と呼ばれるウズベキスタン武道の使い手であり、インドやイランにまで遠征して名声をとどろかせたという。また、詩人としても一流であったらしい。
パハルワーン・マフムード廟の小さな入り口を入るとちょっとした中庭になっている。正面には濃紺のタイルで装飾された門が見える。この中にマハムードの墓があるのかと思いきや、これはヒヴァ・ハーン国末期のムハンマド・ラヒーム・ハーン(在位1864-1910年)の墓のようだ。聖者にあやかってここに墓を造ったのだが、聖者よりも立派な墓になってしまっている。肝心のマハムードの墓は、ハーンの墓に入って左手にある小部屋の奥に安置されている。
この廟の内部装飾はヒヴァでもっとも美しく、思わず息をのむほどだ。壁から天井から何から何までが幾何学模様で埋め尽くされている。
以上がイチャン・カラの主な見所である。他にも小さな建物はいくつもあり、中は博物館になっていたり、店になっていたり、レストランになっていたりする。政府に賃貸料を払えば、遺跡で商売ができるらしい。オフシーズンであったため、開いていないものもあったが、中世の町並みが残るイチャン・カラをブラブラと歩くのはとても楽しい。見張り台や塔に上ることで、俯瞰的に町を眺められるのも面白い点だ。
また、ヒヴァでは上のような写真の装飾をよく見かける。これはホラズム特有のタイル装飾で、星を表しているという。星といえば、ヒヴァは9世紀の有名な数学者・天文学者、アル・フワーリズミーの生まれ故郷である。アル・フワーリズミーは代数学の祖とされる他、インド数学の記数法や演算法をアラビア語で紹介した最初の人物とされている。インドで発見されたと名高い、位取りの「0」は、彼の著作がラテン語に翻訳されることで、ヨーロッパに伝わった。「代数学」を表す「algebra」や計算の手順を表す「algorithm」という単語は、アル・フワーリズミーの著作が語源である。また、彼は天文学や地理学にも通じていた。アル・フワーリズミーはヒヴァの人々の誇りであり、オタ・ダルワーザの近くには彼の大きな像がある。
ヒヴァのお土産の筆頭は毛皮の帽子だ。メインロードを歩けば、各所で毛皮の帽子を売る人を見つけることができる。ピークシーズンにはさらに多くの毛皮帽子屋が店を出しているらしい。ロシア人風の帽子からヒヴァのハーンがかぶっているような帽子まで様々だ。これをひとつでも買えば冬のウズベキスタンでもバッチリだ。