2003年のヒンディー語映画「Boom」に、「Good bye Mumbai, Hello Dubai」という台詞があったのを思い出す。ムンバイーを拠点とする悪党たちがドバイに高飛びする際の台詞だったと記憶している。その頃には既にドバイはインド人にとって人気の渡航先となっていた。いつか行ってみたいと思っていたが、2019年の冬休み、ようやくアラブ首長国連邦(UAE)のドバイを家族旅行することができた。香港の混乱を受けて運賃が安くなっていたキャセイ・パシフィック航空を利用し、香港経由でドバイを訪れた。12月26日~30日の3泊5日(最後の1泊は機内)の旅行であった。
カテゴリーアーカイブ: 旅誌
Ukraine 2019
高校時代の友人がウクライナ人と結婚し、ウクライナの首都キエフで結婚式を挙げることになった。今までウクライナとはほとんど接点がなかったのだが、それでも全くなかった訳ではない。例えば、デリーの語学学校でヒンディー語を勉強していた際、ウクライナからの女子留学生が何人か来ていた。当時は全精力をインドに集中していたため、ウクライナに関心を抱く暇はなかったのだが、唯一興味を持ったのは、ウクライナの地でキリスト教が受容される前に信仰されていた宗教だった。彼女たちの話では、ヒンドゥー教と非常に共通点があるとのことで、その研究をしている人もいた。そういえば、ウクライナの国章はトルィーズブ(三叉戟)だが、これはシヴァ神の持つトリシュール(三叉戟)とよく似ている。ウクライナに行くことがあれば、何かインドとの接点が見つかればと密かに思っていた。
Chornobyl Tour
小学生の頃、突然、「雨に当たってはいけない。はげるから。」と言われ始めたことがあった。遠くの国で大変なことが起こり、危険な物質が風に乗って運ばれて日本まで到達し、それが雨と一緒に落ちて来るというのだ。子供は得てして雨に濡れることを楽しむものだが、それを聞いて恐怖し、以後、なるべく雨には濡れないように心掛けるようになった。今から思い起こせば、それがチェルノブイリの最初の記憶であった。
1986年4月26日深夜、旧ソビエト連邦のチェルノブイリ地区で稼働していた原子炉のひとつが実験運転中に制御不能に陥って炉心溶融を起こし、水蒸気爆発を起こした。その結果、大量の放射性物質が大気中に放出され、風に乗って近隣諸国に広がり、降り注いだ。国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7と評価される大事故であった。「チェルノブイリ」という一見舌を噛みそうな地名は、当時を生きた全ての人々の脳裏に恐怖と共に半永久的に刻まれた。
Iran 2018-19
2018年12月29日から2019年1月5日まで、イランを旅行してきた。8歳と6歳を連れての家族旅行である。全員イランは初めてだ。
Samarkand (Uzbekistan)
[dropcap]サ[/dropcap]マルカンドとデリー。前者は中央アジアの都市で後者は南アジアの都市である。一見、両者を結びつけるものはない。だが、デリーの歴史を知れば知るほど、サマルカンドは身近に感じられる。
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アームー・ダリヤー河とスィール・ダリヤー河の間に位置し、ブハーラーと同じくザラフシャーン川の河畔に位置するサマルカンドは、ブハーラーと並んでシルクロード最古のオアシス都市のひとつであった。「サマルカンド」の意味は、ソグド語で「石の町」とされる。サマルカンドは、中国と地中海を結ぶシルクロードの交差点に位置しているだけでなく、ユーラシア大陸の中心部であり、東西南北の交易の要衝として、文化の衝突地として、軍事の拠点として、各時代、大いに栄え、大いに侵略を受け、破壊と復興を繰り返してきた。
Shahrisabz (Uzbekistan)
[dropcap]シ[/dropcap]ャフリサブズ(Shahrizabz/Shaxrisabz/Shakhrisabz)はティームール帝国の祖ティームール(1336-1405年、在位1370-1405年)の生まれ故郷としてもっともよく知られる町である。だが、その歴史はティームールよりも遙かに古く、かつて「ケシュ」と呼ばれていたこの町には、アレクサンダー大王(紀元前4世紀)や玄奘三蔵(7世紀)が滞在した記録もある。現在では人口7万5千人ほどの小都市だが、かつてはシルクロードの中心都市のひとつであった。「緑の町」という意味の都市名も、そのオアシス都市としての性格を表しているのだろう。
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シャフリサブズは2000年に世界遺産に登録されている。シャフリサブズの見所はとにかくティームールとその一族に尽きる。自身の立身出世の地であるシャフリサブズをティームールは重視し、発展に尽力した。一時は帝国の首都にしようとまで考えたが、冬季に交通の便が悪くなることから、サマルカンドに据えおいたといわれている。また、彼は自分の墓をこの地に造る予定でもあった。
Bukhara (Uzbekistan)
[dropcap]デ[/dropcap]リーのジャマー・マスジドには「シャーヒー・イマーム」と呼ばれる世襲の称号を持った宗教指導者がいる。現在のシャーヒー・イマームはサイヤド・アハマド・ブカーリーである。シャージャハーンがジャマー・マスジドを建造したとき、このモスクのイマーム(指導者)としてブハーラーから適切な人物を呼び寄せたのがこの家系の起源であるらしい。現在では、シャーヒー・イマーム(皇帝のイマーム)といっても国内の全イスラーム教徒を統括するような立場にないが、それでもかつての皇帝から最大のモスクを任された由緒ある家系として、デリーでは一目置かれる存在である。
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サイヤド・アハマド・ブカーリー。ヒンディー語では彼のタイトルを「ブカーリー」と読むことが多いが、「ブハーリー」とカタカナ表記してもよい。どちらにしても「ブハーラーの人」という意味である。なぜシャージャハーンはわざわざブハーラーからイマームとなるべき人物を呼び寄せたのか。それは、ブハーラーがイスラーム世界における文教都市として、バグダードに次ぐ地位を確立していたからである。学者ムハンマド・アル・ブハーリー、詩人ルーダキー、学者イブン・スィーナー、詩人フィルドウスィーなど、ブハーラーは世界に名だたる偉人を輩出してきた。もちろん、ブハーラーはシルクロードのオアシスとして栄えた町のひとつでもあるのだが、イスラーム世界におけるこの圧倒的な地位こそ、ブハーラーの人々が本当に誇っていることである。
Khiva (Uzbekistan)
[dropcap]ウ[/dropcap]ズベキスタンには4つの世界遺産があり、その内のひとつがこのヒヴァ(Khiva/Xiva)に残るイチャン・カラだ。ただ、ヒヴァは他の3つの世界遺産(ブハーラー、サマルカンド、シャフリサブズ)から離れており、日程に余裕のある観光客のみが訪れる。我々も2年前の旅程ではヒヴァを抜かしていた。だが、今回実際に訪れてみて、せっかくウズベキスタンを訪れるならば、ヒヴァを観光しない手はないと感じた。それほど魅力的な町だった。
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ヒヴァは、ホラズム州の州都ウルゲンチ(Urgenchi)から35kmほどのところにある。隣国トルクメニスタンとの国境はすぐそこであり、ウズベキスタンの中では僻地にあたる。タシュケントからは飛行機が一番便利で、最寄りのウルゲンチ空港まで2時間かからないくらいだ。ウルゲンチからヒヴァまでは懐かしのトロリーバスが走っており、運賃が安いのでバックパッカーに人気とのこと。ただ、1~2時間かかり、停電があると止まってしまう。トロリーバスはウズベキスタンでもここしか走っていないそうだ。我々は専用車での移動だったので、3-40分でヒヴァまで着いた。
Uzbekistan 2016-17
[dropcap]ウ[/dropcap]ズベキスタン旅行は短く見積もって2年越しの夢であった。短く、というのは、ちょうど2年前、旅行を計画し、ヴィザまで取得して出発の日を待ち望んでいたものの、出発の2週間ほど前に、予約していたウズベキスタン航空成田~タシュケント直行便が1ヶ月間の欠航となり、土壇場で旅先をミャンマーに切り替えたことがあったからだ。長く見積もれば、インドの首都デリーに住んでいたとき(2001-13年)から、いつかウズベキスタンを旅行したいと思っていた。デリーからウズベキスタンはそんなに遠くないので、そのときに行ければ一番安上がりだったのだが、当時はインド国内旅行を優先していたので、ウズベキスタンは後回しになっていた。
以前からウズベキスタンに惹かれてきたのは、ウズベキスタンには申し訳ないが、純粋にウズベキスタンという国に憧れを感じていたからではない。やはり、インドへの愛情の延長線上にウズベキスタンへの憧れが位置している。
Patiala
[dropcap]現[/dropcap]在市販されているインドの旅行ガイドブックにはパンジャーブ州の情報が少ない。せいぜい州都チャンディーガル(Chandigarh) ((ハリヤーナー州と共用の州都であり、連邦直轄地でもある)) と黄金寺院で有名なアムリトサル(Amritsar)が載っているくらいで、その他の都市については、たとえ書かれていたとしても、オマケ程度だ。しかし、決してパンジャーブ州に見所が少ない訳ではなく、調べてみると結構観光資源は多い。