かぐや姫の思い出

[dropcap]長[/dropcap]年に渡って僕の勉学・研究・生活の場となっていたジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の数ある特徴のひとつは言語教育であり、言語文学文化学部(School of Language, Literature and Culture Studies)では、インドの言語を含む、世界各国の言語とその文学を学ぶことができる。ちゃんと日本語学科(Centre for Japanese Studies)も存在する。日本語教育においては間違いなくインドのトップであり、日本語を上手に使いこなし仕事をしているインド人の多くはJNU卒である。

 JNUの日本語学科では毎年、日本をテーマにした「文化祭」が行われている。デリーで日本語を学ぶインド人学生たちによる日本語劇、生け花や折り紙のワークショップ、日本文化に関する展示、日本食が食べられる屋台など、盛況である。

 ただ、多くの学生は、日本語を学んでいると言っても、日本と直接接点がなかった人たちばかりであり、彼ら自身で「文化祭」を企画・運営するのは難しい。そこで、JNUに留学している日本人学生が何らかの形で支援をするのが常である。そもそも「文化祭」第1回の成功は、当時JNUに留学していた日本人留学生たちの尽力に依るところが大きく、それがその後恒例のイベントとなる上で決定的な原動力となった。

 僕もJNU在学中、「文化祭」に手助けをして来た日本人である。毎年様々な役割を任されたが、今でも強く印象に残っているのは、「かぐや姫」の舞台劇を指導したときのことだ。

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2013年12月5日 | カテゴリー : ブログ | 投稿者 : arukakat

ダールが恋しい

[dropcap]ジ[/dropcap]ャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の独身寮住まいだった頃、一日三食の食事は寮のメス(食堂)で済ませていた。外国人には多少の便宜が図られていたものの、一般的には食べても食べなくてもチャージされるシステムだったので、自然となるべく寮で食事をするようになった。

 菜食主義者が多いインドのことなので、寮の食事も菜食主義者に大いに配慮されている。と言うより、実際は経費節約の理由からであろう、ノン・ヴェジ料理は限られた日にのみ提供されている。月、水、金、日がノン・ヴェジ・メニューのある日で、僕の住んでいたブラフマプトラ寮では、月曜日の夕食は卵カレー、水曜日の夕食はチキン・ビリヤーニー、金曜日の夕食はマトン・カレー、日曜日の夕食は魚カレーというパターンが多かった。ヴェジタリアンにはノン・ヴェジの日にミターイー(甘いお菓子)が追加で提供されて差額調整がされたりする。その他、月に一度のスペシャルデーなるものがあり、その日は豪華な食事となる。スペシャルデーにはもちろんノン・ヴェジの選択肢もあるし、食後のアイスクリームが何よりの楽しみだ。インド人の学生にとって、アイスクリームでディナーを終えるのはこの上なく贅沢なのである。僕も、そういう環境に長くいたために、そう思うようになってしまった。だが、基本的には寮で食事をする以上、誰でも週の大半はヴェジタリアン・メニューを食べて過ごすことになる。

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ポール・マッカートニーのライブ

[dropcap]1[/dropcap]0代の頃はかなり熱心なビートルズ・ファンだった。よく「なぜインドに住もうと思ったのか?」などという質問を受けることがあるのだが、それに対する答えとして、「ビートルズ・ファンだったから」というのはとても分かりやすいため、よく使っている。よく知られているように、ビートルズのメンバーは全盛期にインドで修行をしたことがある。初めてインドを旅行したときには、当然のことながらリシケーシュを訪れ、ビートルズが逗留したマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのアーシュラム(道場)まで足を伸ばした。

 しかしながら、年代が年代なだけに、もちろんビートルズを生で体感したことはない。1995年に「Free As A Bird」が発売されたときに、擬似的な「新譜発売」体験をしたのみである。ジョン・レノンは僕が物心付く前に殺されてしまった。インドに渡る前には、ポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンなどの来日公演に恵まれることもなかった。そしてジョージは僕がインドに留学した初年に亡くなってしまった。ジョージの遺灰がガンガー(ガンジス河)に流されるとか流されないとか、いろいろ噂が立ったのを覚えている。

 異な縁で、デリーを訪れたオノ・ヨーコの舞台パフォーマンスを鑑賞する機会には恵まれた。ビートルズまたはそのメンバーのライブに行ったことがあるというビートルズ・ファンは少なくないが、オノ・ヨーコは意外に穴となっていることが多く、レアな体験だったのではないかと自負している。だが、やはり生き残ったビートルのライブを(お互いに)生きている内に見てみたいというのは当然の願望であった。

 日本に帰って来て、インドの情報に日々接していると、自分がインドに身を置いていないことにもどかしい気持ちを感じることが多いのだが、ポール・マッカートニーの再来日が伝えられたときには、日本にいることも悪くないと思えた。インドでも欧米のミュージシャンによるライブが開催されるようになっては来ているが、ポールがインドで公演を行う姿はあまり想像できない。「Out There」と題されたライブの先行予約が始まった時点で申し込みをし、11月18日(月)の東京ドーム初演のチケットを入手することができた。

Paul McCartney

Paul McCartney
Out There

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2013年11月20日 | カテゴリー : ブログ | 投稿者 : arukakat

日本でインド料理を食べる

[dropcap]イ[/dropcap]ンドに住んでいるときは、よく人から、特に一時的にインドを訪れた日本人から、「毎日何を食べているのか?日本料理が恋しくならないのか?」と聞かれたものだったが、インドで日本料理が食べたいと思ったことは一度もなかった。それほどインド料理が口にあったからであった。毎日でもインド料理を食べていられる。間違いなく、インドに長く住む際のコツは、インド料理と仲良くなることである。

 しかし困ったのは日本に帰ってからだった。時々無性にインド料理が食べたくなる。幸い、僕が日本を留守にしていた10年余り、日本では凄まじい勢いでインド料理レストランが開店し、今やどこにでもインド料理レストランがある時代となった。しかしながら、インド本国でインド料理に親しんで来た者の舌鼓をティラキタと打つようなインド料理レストランに出会うことは難しい。なら自分で作ればいい、という話であるが、こんなこともあろうかとインドから予め持ち込んでいた大量のインド食材は虫が沸いて多くが廃棄処分となってしまった。生態系を変えてはいけないので、多分今後もインド食材を大量に輸入することはないであろう。

 日本でおいしいインド料理レストランを求めて彷徨い始めてまだ数ヶ月しか経っていないのだが、極上のインド料理にありつくには、いくつかコツがあることに気付いた。まず、レストランの位置。オフィス街にあるのか、それとも住宅街にあるのか、でレストランの性格はだいぶ異なる。何がポイントかというと、インド人サラリーマンなどが来やすい位置にあるかどうかということであり、その如何によって、そのレストランの味の傾向が予想できる。東京や大阪など、大都市のオフィス街に位置するインド料理レストランにはインド人客が訪れるため、自然と本場の味を提供するようになる。一方、インド人が来る可能性の低い、住宅街や地方都市などに位置するインド料理レストランは、客が日本人に限定されるため、どうしても日本人向けの味付けをするようになる。

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「きっと、うまくいく」の邦題について

[dropcap]2[/dropcap]013年は、日本でずっとヒンディー語映画に何らかの形で関係して来た人々にとって、記念すべき年になった。

 今まで日本のインド映画ブームは、ラジニーカーント主演のタミル語映画が牽引して来た。「ムトゥ 踊るマハラジャ」(1995年)が1998年に日本で一般公開され、異例の大ヒットを記録したことから始まるインド映画ブームはすぐに終息してしまったが、日本にラジニーカーント・ファンのグループが形成され、一定の勢力を保って来た。2012年に「ロボット」(2010年)が一般公開まで漕ぎ着けたのも、部分的にはその賜物であろう。僕自身も、初めて見たインド映画は「ムトゥ」であるし、その影響でインドに旅行し、そしてインドに留学までしてしまったので、あのときのインド映画ブームから生まれたインド映画ファンということになる。

 しかし、物事には順番というものがある。タミル語映画が日本で受け容れられるのは悪いことではないが、タミル語映画がインド映画の代表のような形で捉えられてしまっては、誤解が生じてしまう。やはり、インドでもっとも影響力のあるヒンディー語映画が日本で一定の普及を見てから、タミル語映画のような地方映画も日本に紹介されるという流れが理想的だった。ヒンディー語映画の別称である「ボリウッド」が、タミル語映画などインド映画全体をひっくるめて使われてしまう傾向のある誤った現状を見ても、順番が良くなかったと感じる。ラジニーカーント映画の雰囲気そのままに、おかしな邦題が添えられる現象が定着してしまったことも、インド映画にとっては不幸なことであった。

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IFFJオープニング講演原稿

[dropcap]去[/dropcap]る10月11日(金)、オーディトリアム渋谷において、インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン(IFFJ)のオープニング・イベントの一環として、ヒンディー語映画の10年史について講演をさせていただいた。インド大使館のアッバーガーニー・ラームー一等書記官に加え、マラヤーラム語映画監督カマル氏やヒンディー語映画俳優ヴィナイ・パータク氏がゲストとして出席する中、10分という短い時間の中で10年に渡る時間の話をしなければならないという制約があったため、一番大切なポイントだけに絞って話をすることになった。原稿通りに講演をするのは好きではないのだが、今回は時間の制約が厳しかったこともあって、予め原稿を用意し、それが10分以内に収まることを確認して、講演に臨んだ。よって、原稿が残っており、ブログを始めたついでにその原稿をここに転載する。


(前略)

「今回お話せていただくトピックは、21世紀に入ってヒンディー語映画がどのような変化をしたのか、ということです。」

「ただし、時間は10分しかいただけませんでしたので、かいつまんでの解説になることをご了承下さい。」

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2013年10月27日 | カテゴリー : ブログ | 投稿者 : arukakat

新時代のカルワー・チャウト

[dropcap]去[/dropcap]る10月22日はカルワー・チャウトであった。我が家ではインドから英字紙タイムス・オブ・インディアが2-3日遅れで届くため、今になってカルワー・チャウトの記事を読んでいる。

 カルワー・チャウトとは、カールティカ月黒分4日に祝われるヒンドゥー教のお祭りである。ダシャハラー祭とディーワーリー祭のちょうど中間くらいに来る。カルワー・チャウトの日、既婚の女性は日中断食し、夫の健康と長寿を祈る。月が出るまで断食を破ってはいけないという、いじらしい掟があり、ヒンディー語映画でも好んで採り入れられる、インド独特の習慣である。

 そのカルワー・チャウトも時代の変遷に従ってだいぶ変わって来ているようだ。

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2013年10月25日 | カテゴリー : ブログ | 投稿者 : arukakat

ブログ「バハードゥルシャー勝」試験運転中

[dropcap]よ[/dropcap]く「これでインディア」は「ブログ」と呼ばれ、僕は「ブロガー」と呼ばれていたのだが、そう呼ばれる度に機会があれば訂正して来た。「ブログ」というシステムや言葉は「これでインディア」が世に出てから誕生したものであり、自分よりも年少者の物差しで測られるのは気持ちが悪かったからだ。そもそも「ブログ」はhtmlで書かれるウェブサイトとは根本的に異なっている。ずっと「これでインディア」はウェブサイトであることに誇りを持ってやって来た。

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