[dropcap]2[/dropcap]013年は、日本でずっとヒンディー語映画に何らかの形で関係して来た人々にとって、記念すべき年になった。
今まで日本のインド映画ブームは、ラジニーカーント主演のタミル語映画が牽引して来た。「ムトゥ 踊るマハラジャ」(1995年)が1998年に日本で一般公開され、異例の大ヒットを記録したことから始まるインド映画ブームはすぐに終息してしまったが、日本にラジニーカーント・ファンのグループが形成され、一定の勢力を保って来た。2012年に「ロボット」(2010年)が一般公開まで漕ぎ着けたのも、部分的にはその賜物であろう。僕自身も、初めて見たインド映画は「ムトゥ」であるし、その影響でインドに旅行し、そしてインドに留学までしてしまったので、あのときのインド映画ブームから生まれたインド映画ファンということになる。
しかし、物事には順番というものがある。タミル語映画が日本で受け容れられるのは悪いことではないが、タミル語映画がインド映画の代表のような形で捉えられてしまっては、誤解が生じてしまう。やはり、インドでもっとも影響力のあるヒンディー語映画が日本で一定の普及を見てから、タミル語映画のような地方映画も日本に紹介されるという流れが理想的だった。ヒンディー語映画の別称である「ボリウッド」が、タミル語映画などインド映画全体をひっくるめて使われてしまう傾向のある誤った現状を見ても、順番が良くなかったと感じる。ラジニーカーント映画の雰囲気そのままに、おかしな邦題が添えられる現象が定着してしまったことも、インド映画にとっては不幸なことであった。
それでも、2013年は、ヒンディー語映画が日本においてようやく正しいポジションを獲得する「元年」となった年だったと言える。「Om Shanti Om」(2007年)、「Don 2」(2011年)、「Stanley Ka Dabba」(2011年)、「Ek Tha Tiger」(2012年)、「Jab Tak Hai Jaan」(2012年)、そして「3 Idiots」(2009年)と、劇場公開映画だけに限っても、かなりの数のヒンディー語映画が公開された。興行成績はそれぞれだったようだが、中でも「3 Idiots」が期待通りの成功を収めたとの報せには胸をなで下ろす思いであった。間違いなくこの映画は21世紀のインド映画最高傑作であり、もしこれが日本で失敗したら、日本はインド映画の市場として全く見込めないと結論づけざるを得ないところだったからだ。とりあえずこれで、飛び抜けていい作品ならばインド映画でも日本の観客に受け容れてもらえることが証明された。
しかし、僕も多少頭の古い人間なので、邦題についてはいろいろ口を挟みたくなる。「3 Idiots」の邦題は、2010年のしたまちコメディ映画祭の時点では「3馬鹿に乾杯!」で、2013年の劇場公開時点では「きっと、うまくいく」になった。僕はどちらもあまり好きではない。もちろん、以前の「踊る~」とか「~風雲録」とかに比べたら何十倍もマシなのだが、まだ何か当時の残り香があるような気がする。邦題の付け方というのはとても難しいみたいなのだが、僕はなるべく基本的に作品に忠実で、リスペクトのあるものにしてもらいたいと勝手に思っている。「3 Idiots」ほどの作品なので、邦題もそれにふさわしいものにしてもらいたかったのだが、そうはなっていない。どちらがマシかと言われれば「3馬鹿に乾杯!」の方になる。「きっと、うまくいく」は、かなり作品のイメージからかけ離れている。
聞くところによると、やはりこの邦題には各方面からいろいろ物言いがあったようだ。劇中の挿入歌や台詞「Aal Izz Well」を日本語に意訳したものだが、志村けんの「だ~いじょ~ぶだ~」や天才バカボンの「これでいいのだ」が本当は訳として最適であるとの指摘があったようで、僕自身もそう思っていた。特に「だ~いじょ~ぶだ~」の方は、「Aal Izz Well」のサビのメロディーとかなり親和性が高く、もしうまく当事者と折衝できたら、「Aal Izz Well」の訳としてこれほどいいものはなかっただろう。しかし題名としてはちょっと間延びしすぎか。
僕がもっとも問題視するのは、「きっと、うまくいく」の訳では「Aal Izz Well」と違った内容になってしまっていることである。「Aal Izz Well」はどちらかというと現状肯定の言葉で、「今の状態で全ていいんだ」ということを自分に言い聞かせる言葉として劇中で使われている。しかし、「きっと、うまくいく」では、未来を肯定する言葉になってしまっており、「今はうまく行っていないけれど、将来的には丸く収まるんだ」というニュアンスになってしまう。
「3 Idiots」の核となるテーマは何であったか。表面上では教育問題を扱っていたが、本質的な部分では人間の心の弱さをテーマとしていた。心は常に最適な道を知っているが、同時に臆病者でもあり、ついつい周囲の雑音に影響されて、願望とは異なったおかしな方向へ行ってしまう。ファルハーンもラージューも、単に落ちこぼれというだけでなく、心の弱い人間で、自らの心の奥底から発せられる声に従わず、勉強にもがきながら迷走ばかりしていた。ランチョーは「Aal Izz Well」というマントラによって彼らの不安定な心を落ち着かせ、彼らを心の声に従わせて、最適な道に導く。「きっと、うまくいく」という訳では、そのニュアンスが出にくい。何か未来のどこかに成功があって、そこに自然に向かうのだという感じになってしまう。そうでなくて、自分の心が本当に欲しているありのままを恐れずに実行しよう、そうすれば成功は後から付いて来る、ということであり、もし映画の本編を見てそこまで読み取れないのならば、題名が誤った方向にミスガイドして行ってしまう恐れがある。
また、それと関係あるのか分からないが、「3 Idiots」を見た日本人の観客は、インドではあり得ない、意外な感想を持つこともあったみたいだ。例えばチャトゥルというキャラがいる。ライバルを蹴落として試験でトップになろうとしたりする、典型的な悪役キャラであり、彼に同情を差し挟む余地はないというのが監督の意図だろうし、インドでの一般的な評価だと思う。彼が最後の最後で小気味よく辱めを受けることで、映画鑑賞後の爽快感が確保されているのも、彼が悪役だからこそである。しかしながら、どうも日本人の中には、どこをどう読み違えたのか、彼に感情移入をする人もいたらしい。また、ティーチャーズ・デーの式典で、チャトゥルがまんまとランチョーらの策略に嵌り、「チャマトカール(奇跡)」を「バラートカール(強姦)」などと言ってしまうシーンがある。それを生徒たちが大爆笑するのを見て、強姦をネタに笑っていると不快に思う人もいたと聞く。折しもデリー集団強姦事件があった後なので、そういう感想を持つ人が増えてしまったのかもしれないが、はっきり言ってあのシーンはもっと軽く見て笑うべきものであり、変に揚げ足取りをするような場面ではない。その辺りの「呼吸法」みたいなものに、どうも馴染まない日本人がいるみたいだ。今後、インド映画を順次日本で公開して行くにあたり、そのギャップはひとつの課題となって行く可能性はある。
僕が日頃から唱えているのは、「インド映画はインド人のためにある」ということである。インド映画には十分な国内市場があり、別に日本人や他の国の人々に気に入ってもらうために作っている訳ではないので、日本人には理解しがたい部分が出て来るのは仕方がないだろう。それをどこまで本来のニュアンスを変えずに分かってもらえるようにするのかが字幕翻訳や邦題命名をする際の腕の見せ所であり、歴史が浅い米国の、最初から世界市場を念頭に置いているハリウッド映画の字幕とはちょっと訳が違って来る。結局は、インドの古典音楽や古典舞踊を鑑賞する際と同様に、観客側もある程度の予習を要求されるのだが、少なくともミスガイドするような邦題や字幕は避けてもらいたいものである。
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