Yangon (Myanmar)

[dropcap]2[/dropcap]014年の年末に、ミャンマー(旧名ビルマ)の最大都市ヤンゴン(旧名ラングーン)を訪れた。

Yangon

アジア・プラザ・ホテル14階から眺めたヤンゴン市街地

 

 元々はウズベキスタンを旅行する予定で、2ヶ月前くらいから着々と準備を進めて来たのだが、出発2週間前になって、往復のキャリアとして選んでいたウズベキスタン航空が突然一方的に冬季1ヶ月間の成田便運休を告知して来て、旅行計画は敢えなく瓦解した。 ((ウズベキスタン航空の成田~タシケント直行便は乗客不足のためか冬季によく運休となるらしい。)) 東京の高輪にあるウズベキスタン大使館までわざわざ二度も足を運んでヴィザを取得したのだが、それも水泡に帰した。航空会社をアシアナ航空か大韓航空に変更する選択肢もあったのだが、ヴィザの期間をウズベキスタン航空のスケジュールに合わせて前後に余裕のない形で申請してしまったため、微妙に到着日/出発日の異なるそれらの航空会社への変更も困難であった。また、12月になって気温が下がって来ると、どうせなら寒い国よりも暖かい国に行きたいなぁという気分にも密かになっていた。よって、今回はウズベキスタンに強い未練はなかった。そして、土壇場で代替の旅行先として手配したのがミャンマーであった。 ((ミャンマーは2014年9月から新しくネット申請によるEヴィザを始めており、ヴィザ取得が比較的容易である。))

 とは言っても、ミャンマーは元々この冬の旅行先の第二候補だったので、切羽詰まっての破れかぶれの変更ではない。ウズベキスタンとミャンマー、おそらくこの2つの国を旅行先候補として並べる考え方をすぐに理解できる人は少ないと思うが、どちらも地理的にインドに近接していることが分かれば、予想は付きやすいだろう。地理的に近い国々は、歴史的にも文化的にも関連性を持っていることが多い。ウズベキスタンとミャンマーは、おそらくお互いに直接的な関係はないものの、両国ともインドと非常に密接な関係を持っているという点で共通項があり、インド好きの目には、インド旅行の延長線上としてこれらの国が魅力的な旅行先に映る。本当はインド滞在中にこれらの国へ足を伸ばしておけたら安上がりだったのだが、インドに住んでいるときはインド国内の旅行を優先していたため、行くのが後回しになってしまっていた。

 


 

 ミャンマーとインドの二国間関係において最も古く最も重要なものは仏教だ。ミャンマーの総人口の9割が仏教徒であり、ミャンマーがインドから受けた影響は限りなく大きい。しかも、ヤンゴンの中心部にはシュエダゴン・パゴダと言う高さ約100mの黄金の仏塔が建っているが、この起源として伝えられる物語は、ブッダが健在だった時代にまで遡る。ブッダが悟りを開いて間もない頃、タプッサとバッリカという兄弟の商人 ((タプッサとバッリカは、ビルマ出身ともアフガニスタン出身とも言われる。)) がインドを訪れ、ブッダの説法を聞いて帰依した。彼らはブッダから8房の髪の毛を賜り、ビルマまで旅した。そして、エーヤワディー・デルタの平地にポツンと盛り上がった小高い丘にブッダの髪の毛を納めた。この丘が現在シュエダゴン・パゴダの境内となり、その周辺にヤンゴンの市街地が広がっている。ただし、現存している仏塔は15世紀頃に建てられたとされている。建立以来、仏塔には歴代の権力者によって金が寄贈され続けた。現存する仏塔は60トン以上の金箔で覆われており、頭頂部の宝珠には76カラットのダイヤモンドを筆頭とする合計1,800カラットのダイヤモンドやその他の宝石が散りばめられている。ミャンマーが「黄金の国」と呼ばれて来た所以である。

Shwedagon Pagoda

シュエダゴン・パゴダ

 ただ、インドとミャンマーがもっと直接的な関係を持つようになったのは、両地域が英国の植民地となってからである。インドの植民地化は18世紀から徐々に始まり、1858年に完了した一方、ビルマは19世紀に英国と三度の英緬戦争を繰り広げる中で段階的に植民地化され、1886年に英領インドに併合された。歴史上初めてこの両地域が同じ「国」となったことで、両地域間での人の往来が活発化した。ビルマ人がインドの大学で学ぶようになった一方、インド人官吏、医師や教師などの専門職、商人、労働者などがビルマ管区の主都ラングーンに多数住むようになった。今回のミャンマー旅行は、特にこの時期のインドの面影を少しでもヤンゴンに垣間見ることを期待してのものだった。

 


 

 ヤンゴン中央駅の南側、ヤンゴン市街地を北西から南にかけて包み込むヤンゴン河との間には、スーレー・パヤーと呼ばれるパゴダを中心に東西南北に整然と道路が走る区画がある。地元の人々から「ダウンタウン」と呼ばれるこのエリアは、英領時代にビルマの中枢として開発され、独立後も2006年に新首都ネーピードーに遷都されるまでミャンマーの中心だった。遷都後も商業活動は相変わらず活発だ。しかも数年前に自動車の輸入規制が緩和されたことで市内の自動車数が激増し、おそらく遷都前よりも騒々しくなっている。

Sule Paya

スーレー・パヤー

 ダウンタウンには、英領時代に建造された数々のコロニアル建築が残っている。その風景は、同時期に英国人によって開発されたカルカッタ(現コールカーター)、ボンベイ(現ムンバイー)、マドラス(現チェンナイ)などと共通するものがあり、インドを知る者にとっては初見にもかかわらず、どことなく懐かしさを感じさせられる。また、建築だけでなく、それらの建物がかつて何に使われていたのかを調べてみると、さらにインドとのつながりを発見することになる。

Pansodan Street

パンソダン・ロード

 例えば、スーレー・パヤーに近接するマハーバンドゥーラ公園の南にある、ギリシア神殿のようなネオクラシカル様式の建築物は、現在は空き家となっているが、英領時代はインド準備銀行(Reserve Bank of India)の建物だった。

Myawaddy Bank

旧インド準備銀行

 インド準備銀行は英領インドの中央銀行で、植民地期のインドとミャンマーの通貨を発行していた。現在でもインドの通貨を発行しているのは同名の銀行である。ただ、この建築物の建造年は1939年と比較的新しい。1937年にはビルマはインドから独立した植民地となり、その5年後の1942年にはラングーンが日本軍に占領されているし、1948年にビルマが独立した後、ビルマの中央銀行はビルマ統一銀行(Union Bank of Burma)と改名されたため、この建物が「インド準備銀行」としての役割を果たした期間は非常に短かったと言えるだろう。ただ、その後もこの建物はミャンマーの中央銀行としての役割を務め続けた。その重厚で閉鎖的な建築は強固な金庫を彷彿とさせ、建物自体が中央銀行としての権威を雄弁に物語っている。ムンバイーやデリーにあるインド準備銀行の建築とも共通する理念がある。

 その元インド準備銀行の斜向かい、ヤンゴン河に面したストランド・ロード(Strand Road)には、角から空に突き出たインド式チャトリー(東屋)風のタワーが特徴的な建物がある。

Myanmar Economic Bank 3

旧ベンガル銀行

 1914年に建造されたこの建物には、元々ベンガル銀行(Bank of Bengal)が入っていた。ベンガル銀行は1806年に創立されたインド最古の銀行で、創立時はカルカッタ銀行(Bank of Calcutta)と呼ばれていた。その後、ベンガル銀行はボンベイ銀行(Bank of Bombay)及びマドラス銀行(Bank of Madras)と統合され、1921年にインド帝国銀行(Imperial Bank of India)となった。インド帝国銀行は基本的に法人向けの金融を担う市中銀行だったが、英領インドの中央銀行であるインド準備銀行が設立される1935年までは、中央銀行としての役割も部分的に果たしていた。インド帝国銀行は1955年にインド・ステート銀行(State Bank of India)に改名された。同銀行は現在インド国内の市中銀行としては最大規模を誇る。

 この建物には、植民地期から独立後まで、時代を追うごとにベンガル銀行、インド帝国銀行、インド・ステート銀行が入っていたが、1963年にビルマ国内の銀行が国有化されたことで、その歴史は幕を閉じた。現在では国営のミャンマー経済銀行(Myanmar Economic Bank)が入っている。インド・サラセン様式の建築は、コールカーターのヴィクトリア・メモリアルなどと似ている。

 これらの銀行は現在インドに存在するため、インドとの関係を見出しやすい。また、各建物の建築家を調べて行っても、インドとミャンマーの共通点を見つけることができる。例えば、元インド準備銀行の南側かつ元インド・ステート銀行の東隣には、現在のところ工事用の足場で全貌が見えなくなっている植民地期の建物がある。

Yangon Division Office Complex

旧裁判所

 これは旧裁判所であり、1927年から1931年にかけて建造された。この建築を設計したトーマス・オリフェント・フォスターは、当時ニューデリーを建造中だった著名な建築家エドウィン・ラッチェンスの下で助手を務めていたこともあり、ラッチェンスの建築哲学に多大な影響を受けていた。ラッチェンスはヨーロッパの古典様式と植民地の伝統様式を組み合わせた折衷建築や巨大な記念碑的建築を得意とした建築家で、デリーの大統領官邸、インド門、国会議事堂などを設計したことで知られる。現在、「ニューデリー」と呼ばれるエリアは東西南北に拡大してしまっているが、カルカッタから遷都された当初の「ニューデリー」は、大統領官邸とインド門を軸として南北に広がる限られたエリアだった。ラッチェンスがこの地域の都市計画を担当したため、現在ではこのエリアは「ラッチェンス・デリー」と呼ばれている。 ((現地語では「ラッチェンス」は「ルティヤンス」とも発音される。))

 そのような前知識をもってこの建物を眺めてみると、確かにデリーの国会議事堂に通じるものがあるし、特にコンノート・プレイスに酷似した建築様式であることが分かる。コンノート・プレイスの設計者はロバート・トール・ラッセルという別の建築家であるが、当然、エドウィン・ラッチェンスのネオクラシカル建築に多大な影響を受けている。

 こうやって見ると、ヤンゴンにはデリーの香りもする訳だが、川に面した都市であるヤンゴンは、やはりコールカーターに近い雰囲気があるし、常夏の気候はムンバイーやチェンナイと似通っている。また、ニューデリー建造前のヤンゴンの植民地期建築は完全にコールカーターやムンバイーと類似している。それらの都市の建築物を設計した建築家がヤンゴンでも仕事をした例は多い。例えば、マハーバンドゥーラ・ロード(Mahabandoola Road)とパンソダン・ストリート(Pansodan Street)の交差点にある中央電信局(1917年)を設計したジョン・ベッグは、ムンバイーの郵便局本部(1903年)やコールカーターの医科大学(1911年)なども設計している。建築物の設計者が同じならば、建築物によって成り立つ街の外観が似通って来るのは自然なことだ。

Central Telegraph Office

中央電信局

 ムンバイーを代表するコロニアル建築と言えば、世界遺産にも認定されているチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス(旧名ヴィクトリア・ターミナス)であろう。この駅を設計したのはフレデリック W. スティーヴンス。彼が設計した建物はヤンゴンにはないが、彼の息子チャールズ F. スティーヴンス設計の建物は残っている。スーレー・パヤーの東、市庁舎の隣にある建物だ。

Rowe & Company

元ロウ&カンパニー本店

 現在ではアヤ銀行(Aya Bank)が入っているが、1910年完成当時は、「東洋のハロッズ」と呼ばれた高級百貨店ロウ&カンパニー(Rowe & Company)本店の建物であった。ロウ&カンパニーはR.V.ロウによって1866年に創業され、ヤンゴン各地を転々とした後、この一等地に居を構えることになった。ヨーロッパ人や裕福なアジア人が贅沢品を買い求めてこの店を訪れたと言う。第二次世界大戦中は略奪の被害に遭ったが、その後も復活して商売を続けた。しかし、独立後、軍事クーデターを経てミャンマーが社会主義国となったことで、1964年にロウ&カンパニーは国有化され消滅した。

 元々世界に名を馳せた高級百貨店だっただけあり、その建築は非常に上品だ。父親が得意とした荘厳なヴィクトリア様式建築よりも洗練されていて好感が持てる。マハーバンドゥーラ公園からの眺めも素晴らしい。ちなみに、チャールズ・スティーヴンスはボンベイ在住の建築家であり、ムンバイーのコラバにあるリーガル・シネマなどの設計もしていて、やはりインドとつながりがある。

 ヤンゴンにも典型的なヴィクトリア様式の建築は多い。おそらくヤンゴンで最も壮麗なヴィクトリア様式建築は官庁(Minister’s Office)であろう。ダウンタウンの東側、アノーヤター・ロード(Anawratha Road)とマハーバンドゥーラ・ロードの間にある巨大な建築である。

Ministers' Office

旧官庁

 これは英領時代にも官庁(Secretariat)として機能していた建物だ。元々、ビルマ植民地政府の官庁はヤンゴン河沿いのストランド・ロードにあったのだが、1886年にビルマ全土が英国の支配下に組み込まれたことで官僚の仕事量が激増し、広い敷地の庁舎が必要になったことで、新たに建造された。建造年は1889年から1905年。建築家のヘンリー・ホイネフォックスは古風なスタイルを固持していたようで、ロンドンの街並をそのまま持って来たような、ヴィクトリア様式の建築物となっている。

 行政機構の中心だったこともあり、ミャンマー史を左右する多くの重要な事件がこの建物で起こった。最も強烈なインパクトがあったのは、ビルマ独立の立役者アウンサン将軍の暗殺である。アウンサン将軍は日本で軍事訓練を受けたこともあり、日本とも所縁のある人物だ。学生リーダーから身を起こし、ビルマの完全独立のため、時に日本と組み、時に英国と手を結びながら、激動の時代を駆け抜けた。しかし、1947年7月19日、ビルマ独立の半年前に、アウンサン将軍はこの建物の中で政府と独立について話し合っている最中に殺された。暗殺者は前首相ウー・ソーだとされているが、暗殺の詳しい動機や黒幕などについては未だに諸説が入り乱れていて謎が多い。アウンサン将軍は、言うまでもなく、国際的に有名な女性政治家アウンサンスーチーの父である。

 2005年に行政機能が新首都ネーピードーに移転したことで、この歴史的な建築物もほぼ空き家となっている。ただ、警備は未だに厳重で、部外者は容易に立ち入れない。

 このように、ヤンゴンのダウンタウンに残るコロニアル建築は、インドの諸都市に残るコロニアル建築と同時代に建造されたことから、自然と似通った雰囲気を醸し出している。ただ、建てられた時代によって、ムンバイーやコールカーター寄りの建築であることもあれば、デリー寄りの建築であることもある。これらの建築が一ヶ所に集まっているところがヤンゴンのダウンタウンのユニークな点であると言えるかもしれない。

 上記の建築物は主に元々の用途がインド関連、もしくは設計者が英国人であることからインドとの共通点を見出していたが、調べてみると、発注主がインド人である建物もある。例えば、マーチャント・ロード(Merchant Road)とパンソダン・ストリートの交差点にある5階建ての建物は、かつてランデール・ハウスと呼ばれていた。今でも建物正面の壁には「Rander House」の文字が見える。

Rander House

ランデール・ハウス

 ランデールとはグジャラート州スーラトにある町の名前だ。その名の通り、この建物はランデール出身の商人が建てたとされている。ランデールはイスラーム教徒の多い町のようで、近くにスーラト出身者のためのモスクもあることから、発注主はイスラーム教徒商人だったと予想できる。ランデールの商人は、少なくともコンバウン朝期(1752-1886年)にビルマに移住して貿易をしていた。16世紀の文献からも、ランデールの商人がビルマの町と交易をしていた記録が残っており、彼らの貿易活動はさらに歴史がある可能性もある。確かに前述の通りビルマが英領インドに併合されてからインドとビルマの関係は直接的なものとなったのだが、その前から商業コミュニティーによる民間の貿易活動はある程度行われていたと思われる。

 ただ、ランデール・ハウスを建造した一家は、第二次世界大戦前後に地元に帰ったとされている。その影響からか、ランデールではビルマ料理に影響された食べ物が伝わっていると言う。ミャンマーの視点からランデールを訪れてみるのも面白いだろう。

 ダウンタウンのコロニアル建築について書いたついでに、スーレー・パヤーのすぐ北東に位置する市庁舎についても言及しておく。これは、インドとは直接関係ないものの、ダウンタウンの中で最も特徴的な建物である。

City Hall

市庁舎

  この建築はブリティッシュ・ミャンマー様式と呼ばれるもので、英国の建築様式とミャンマー(特に古都バガン)の建築様式の折衷である。屋根より下が英国風、屋根がミャンマー風となっている。建築計画が始まった1913年当初は英国人建築家L.A.マクランファのデザインに従って進んでいたが、1914年に第一次世界大戦が勃発したことで棚上げされ、再び着手されたのは1925年になってからだった。ところが、このときまでにナショナリズムが高揚しており、市庁舎の建築様式にも土着のものを取り込むことが要求されるようになった。そこでミャンマー人建築家シトゥ・ウ・ティンが引き継ぐことになり、折衷様式の建築となった。建造には15年の歳月が掛かっており、1940年にようやく完成した。現在までヤンゴン市庁舎として使われているようである。

 英領インド風味の強いヤンゴン・ダウンタウンのコロニアル建築群の中において、一際ミャンマーらしさを主張する荘厳な建物だ。東洋風の屋根が乗っかっているため、日本の近代折衷建築――卑近な例では名古屋市役所本庁舎――とも相通ずるものがあるが、ヤンゴン市庁舎はバランスが取れていて美しい。ブリティッシュ・ミャンマー様式は、ダウンタウンの北端に建つヤンゴン中央駅などの建築にも受け継がれており、ヤンゴンのアイデンティティーのひとつとなった。

 


 

 ダウンタウンにはインド人街もある。スーレー・パヤーの西側一帯がインド人街となっているとのことで足を伸ばしてみた。確かにインド系の人々が多く見受けられるし、モスクやヒンドゥー教寺院、それにインド料理レストランや屋台が散在しているものの、ミャンマー人のプレゼンスも大きく、完全に「リトル・インディア」の様相は呈していない。また、どちらかと言うと南インドの影響が色濃い。インド人街の中心部にある寺院は完全なドラヴィダ様式であるし、この辺りで店を構えるインド料理レストランは基本的にケーララ料理レストランかチェッティナードゥ料理レストランであった。ガッツリと北インド料理を食べたかった僕としては期待外れだった。

New Delhi Restaurant

ニューデリー・レストラン

 ただ、そもそもこの地域がインド人街となった理由を調べてみると興味深いものがあった。1857年にインドで英国に対する大反乱が発生し、それが英国東インド会社によって鎮圧されると、反乱の旗頭として担がれたムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルは責任を取らされて廃位となり、ラングーンに追放刑となった。このとき、ザファルに付き従ってラングーンまでやって来た従者たちが住み、商売を営んでいたのが、現在のシュエ・ボンター・ストリート(Shwe Bontha Street)だとされている。インド人街の中心部を南北に貫くこの通りは、そのような理由から、かつてムガル・ストリートと呼ばれていたと言う。

 ムガル・ストリートの北端はヤンゴン最大の市場、ボージョー・アウンサン・マーケットだ。

Bogyoke Aung San Market

ボージョー・アウンサン・マーケット

 マーケットの向かい側にチューリヤー・ムスリム・ダルガー・モスク(Chulia Muslim Dargah Mosque)というモスクがあり、その西側から南に延びる通りが、シュエ・ボンター・ストリートである。ちなみにチューリヤーというのはタミル地方から来たイスラーム教徒のことで、このモスクはその名の通り、チューリヤー・コミュニティーのモスクということになる。

Chulia Muslim Dargah Mosque

チューリヤー・ムスリム・ダルガー・モスク

 かつてラングーンの人口の6割を占めていたというインド人は、今では僅かばかりのプレゼンスに過ぎない。1930年代の反インド人暴動、1937年の英領インドからの独立、1948年のビルマ連邦共和国建国など、いくつかインド人の退去を促した出来事があったが、特に1962年の軍事クーデター以降、ミャンマーでは国粋主義が顕著となり、インド人は行政職などから外され、多くはミャンマーに未来と生活の安定を感じられなくなり、国外への脱出を余儀なくされた。また、ミャンマーに残ったインド系の人々のビルマ人化も進んでおり、男性は巻き布であるロンジーを着用しているし、女性は日焼け止めのタナカを顔に塗っている。このムガル・ストリートにしても、インド人街にしても、完全なインドらしさは既に残っていない。

 


 

 ただ、ヤンゴンにおいて最もインドとの強固な精神的絆を感じさせられる場所がある。それは前述のバハードゥル・シャー・ザファルの墓である。このブログのタイトルにも使わせてもらっている名前なので、ヤンゴンでは是非ともザファル廟を訪れたかった。もしヤンゴンで一ヶ所だけ訪れることが許されるとしたら、迷わずこのザファル廟を選んでいたことだろう。

 ザファルの歴史上の正式名はバハードゥル・シャー2世。彼は1775年に生まれ、1837年にムガル朝の皇帝に即位した。しかし、かつて地球上で最大の富と権力を誇っていたムガル帝国も、この頃には弱体化し、その領土はデリーとその周辺部に限られていた。また、その限られた領土の統治にしても、英国東インド会社から派遣されたレジデントと呼ばれる英国人補佐官に実権があり、皇帝とは名ばかりで、実際は単なる年金生活者に貶められていた。しかしながら、有名無実化したとは言え、インド亜大陸は300年以上に渡ってムガル朝の支配下に置かれて来たため、皇帝の威光はまだインド人の心の中に残っていた。いかに英国人がインドを実質的に支配しようとも、インド人にとって彼らはポッと出の侵略者に過ぎなかった。また、ザファルは詩才に恵まれ、文学者として一級の実力を有しており、現在までその評価は変わっていない。「ザファル(勝利)」は彼の雅号である。権力はともかく、教養においては、英国人の一官僚が到底太刀打ちできないものをザファルは持っていた。

Bahadur Shah Zafar

バハードゥル・シャー・ザファル

 おそらく英国人はデリーを完全に手中に収めるためにザファルの自然死を静かに待っていたと思われるが、1857年に大きな転機が訪れる。英国東インド会社軍を構成していたスィパーヒーと呼ばれるインド人兵士たちが各地で英国人に反旗を翻し、その内の一団がデリーを占領したのである。ザファルは反乱軍の旗頭に担ぎ出され、一時的にデリーは皇帝の統治下に戻った。だが、すぐに英国人の反撃が始まり、間もなくデリーは奪還された。ザファルは居城であったラール・キラーを脱出し、南に逃げたが、フマーユーン廟に隠れていたところを発見され、逮捕される。ザファルは裁判にかけられて有罪となり、1858年、当時既に英国の支配下に入っていたラングーンに追放刑となる。同時に、ムガル帝国は滅亡した。

 追放刑となったザファルはシュエダゴン・パゴダの近くに住んでいたとされる。この辺りは高級住宅街になっているが、突然元皇帝とその家族の管理を任された英国人官僚ネルソン・デーヴィーが処遇に困って彼らを自宅に住まわせていたのだと言う。ザファルは1862年11月7日に死去し、デーヴィー宅の敷地内に葬られた。ただ、英国人は未だに皇帝の権威が反英運動の精神的支柱となることを怖れており、ザファルの墓所の正確な位置を秘密とした。これは、米軍がウサーマ・ビン・ラーディンの墓所を特定不能にしたのに似ている。後にザファルの墓所と比定される場所に墓が作られ、ザファルと共にラングーンに住んでいた妻と孫娘も相次いで隣に葬られた。

 ザファルの墓は現存しており、誰でも簡単に訪れることができる。シュエダゴン・パゴダの南に伸びるシュエダゴン・パゴダ・ロード(Shwedagon Pagoda Road)を南に向かうと、ズィワカ・ロード(Ziwaka Road)と交わるT字路がある。このズィワカ・ロードに入り、しばらく進むと、ウ・ウィサラ・ロード(U Wisara Road)との交差点の角に、イスラーム風の建築が見えて来る。これがバハードゥル・シャー・ザファルの墓である。入り口のアーチには英語で「Dargah of Bahadur Shah Zafar / Emperor of India (1837-1857)」と書かれているし、ザファルの肖像画も見えるので、近くに行きさえすればすぐに分かる。シュエダゴン・パゴダから歩いて10分ほどである。

Zafar's Grave

バハードゥル・シャー・ザファル廟

 敷地内にはいくつか建物があるが、メインの建物は門をくぐって正面にあるものだ。上に続く階段と下に続く階段があり、まずは上へ上ってみる。広々としたホールとなっており、左側に「ラール・キラー/レッド・フォート」と書かれた部屋がある。この中に3つの墓が並んでいる。天蓋状の装飾物が置かれた一番手前の墓がザファルのもので、残りの2つが妻のズィーナト・マハルと孫娘ラウナク・ザマーニー・ベーガムのものであろう。部屋も墓も美しく整備されており、皇帝の墓として一応の威厳は保たれているように感じた。

Zafar and his family's grave

ザファル廟内部「レッド・フォート」

 また、建物の入り口から下に続く階段を下って行くと、奥にもうひとつ大きめの墓が鎮座している。こちらは、ザファルが葬られた直後に造られた墓を整備したものである。この墓は、前述の通り、当初は英国人によって隠されていた。現在上にある3つの墓は、ザファルが葬られたであろう場所を予想して後世に造られたもので、しばらくはこれらがザファルとその家族の墓として参拝の対象となって来た。ところが1991年、その隣にメモリアル・ホールを建てるために掘削作業を行ったところ、地中からザファルのオリジナルの墓と思われる構造物が見つかった。地下にあるのはこの墓である。インドのイスラーム墓廟建築では、しばしば地下に本物の墓が安置され、地上部に偽の墓石が置かれる。ムガル朝前期の皇帝の墓廟建築も例外ではないが、アウラングゼーブ辺りからシンプルな墓となった。だが、奇しくも歴史の悪戯から、ムガル朝最後の皇帝の墓は、ムガル朝最盛期の皇帝たちの墓廟と同じような構造の墓廟となっている。

Zafar's Original Grave

ザファルの墓(オリジナル)

 ちなみに、ザファルは自分の墓所としてデリーのメヘラウリーに用地を用意していたとされる。スーフィー聖者クトゥブッディーン・バクティヤール・カーキーの聖廟の西、ザファル・マハルと呼ばれる宮殿の一角にある。ここにはバハードゥル・シャー1世やシャー・アーラム2世など、ザファルよりも前の皇帝や皇族の墓が集まっている。メヘラウリーの土は、今でもザファルの帰りを待ち続けているのである。

Zafal Mahal

ザファルの墓所予定地とされる場所 デリーのメヘラウリーにて 2007年3月22日撮影

 それと呼応するように、ザファルの書いたこんな詩がある:

Kitni Hai Badnaseeb “Zafar” Dafan Ke Liye
Do Gaz Zameen Bhi Na Mili Koo-e-Yaar Mein

なんと不幸者か「ザファル」よ、墓のための
なけなしの土地すらも、愛しき街に得られず

 これは、ザファルが晩年に書いたとされるガザル詩のマクター(最終節)である。「愛しき街」とは、デリーもしくはメヘラウリーだったのだろう。クトゥブ・ミーナールがあるメヘラウリーは、当時の皇族やデリー市民たちのピクニック先であった。

 ザファル廟はインド、パーキスターン、バングラデシュからの要人の、定番の訪問地にもなっており、最近ではAPJアブドゥル・カラーム、マンモーハン・スィン、パルヴェーズ・ムシャッラフ、ナワーズ・シャリーフなどがこの墓廟を訪れたときの写真が誇らしげに飾ってあった。また、インパール作戦が失敗に終わった後の1944年7月11日にはインド国民軍(INA)のスバーシュ・チャンドラ・ボースもザファル廟を訪れており、「Ghaziyon Mein Boo Rahegi Jab Talak Imaan Ki / Thakt-e-London Tak Chalegi Tegh Hindustan Ki」(戦士たちの信じる気持ちが続けば、ロンドンの王座までインドの剣は届く)で終わる有名な演説を行った。ボースはザファルをインド独立戦争の先駆者として扱っていたのである。

 ただ、地元のインド人たちからは、ザファルの墓はチシュティー派スーフィー聖者の聖廟として信仰対象となっているようである。「ダルガー(Dargah)」という言葉自体がそれを表している。しかしながら、インドのダルガーによくあるような、祈祷用品を売る店などが周辺にないのが気になった。ザファルにチャーダル(布)を捧げたいと思っていたのだが、花を売る店すらなかった。自分で用意して来なければならないのだろうか。

 ところで、ザファル廟の敷地内にはビリヤーニー食堂もあり、多数のタクシーの運転手が昼食をしに集まっていた。彼らもまた、ラスト・エンペラーの従者の末裔なのであろうか。イスラーム教徒であることは間違いなかった。

Biryani

ザファル廟のビリヤーニー屋


 

 スバーシュ・チャンドラ・ボースの名前が出て来た。ボースも、紛れもなくヤンゴンをインドと結び付けるキーパーソンである。ヤンゴンにボース所縁の地はいくつかあるようだ。例えば、INAの本部が置かれたのもヤンゴンであった。しかしながら、多くの史跡は観光地化されておらず、既にほぼ忘れ去られており、短期の旅行者が見つけ出すのは困難である。その中で最も訪れやすいのは、ウ・ウィサラ・ロードの大通りから少し奥まった場所にあるレストラン、House of Memoriesであろう。

House of Memories

House of Memories

 現在レストランとして開放されているこの建物は、かつて独立運動団体「ビルマのためのインド独立軍(Indian Independence Army for Burma)」を主宰していたインド人ディーナー・ナートの邸宅だった。ディーナー・ナートはインドやビルマの独立運動家を支援し、アウンサン将軍が率いていたビルマ独立軍(Burma Independence Army)の事務所もここに置かれた。まだINAの本部がラングーンに置かれる前、ボースはここで密かにアウンサン将軍と会い、両国の独立運動の連携を模索したと言う。

House of Memories

House of Memories 2階

 House of Memoriesは基本的に高級ミャンマー料理レストランで、上品なミャンマー料理を提供している。ただ、レストランとなった今でも、アウンサン将軍の事務室だった部屋や祈祷室はそのまま残されており、希望すれば自由に見学させてもらえる。

Aung San's Office

アウンサン将軍の事務室

 House of Memoriesのメニューにはボージョーズ・ライス(Bogyoke’s Rice)なる特別料理もある。「ボージョー(Bogyoke)」とは「将軍」という意味で、アウンサン将軍の愛称である。ライスに鶏肉や魚のフライと目玉焼きが添えられている。これがアウンサン将軍の好物だったかどうかは定かではない。

Bogyoke's Rice

ボージョーズ・ライス

 館内にはジャワーハルラール・ネルーやチャンドラ・ボースなど、インドの要人が映った写真も飾られており、インドとの結び付きをヒシヒシと感じさせられる。ところで、アウンサン将軍はインド初代首相のネルーと個人的な親交があった。だが、現代の視点から見ると、この親交が印緬関係に悪影響を与えてしまったと評価できるかもしれない。独立後のインド政治を支配して来たネルー・ガーンディー家はアウンサン将軍の死後も彼とネルーとの友好関係を重視したため、1962年に軍事クーデターが起き、ミャンマーが軍事政権になると、外交に道徳を持ち込んで、ミャンマーとの関係を切った。欧米諸国もミャンマーに経済制裁を加える中、中国が援助を続けたため、現在のミャンマーは、歴史的にはむしろインドとの関係の方が強いのにもかかわらず、中国の強い影響下に置かれている。2010年のタン・シュエ大統領(当時)訪印から印緬関係は急速に改善しているが、中国には何周も周回遅れを取っている。

 


 

 ヤンゴンでの滞在期間は3日ほどであった。12月は、ヤンゴンにおいて1年の内で最も快適な気候の時期とのことで、初夏くらいの軽い暑さを期待して行ったのだが、日中は日差しが強く、かなり暑かった。さらに4歳児と2歳児を連れての旅だったため、思うような機動力を発揮できなかった。それでも、インド所縁の地を中心に、かなり満足の行く旅行ができたのではないかと思う。

 1週間ミャンマーに滞在した中で、不快な気持ちにさせられたことがほとんどなかったのは驚きだ。インドだったら1日の内に感情の激高が何度起こることだろうか。出会ったミャンマー人は皆、とても親切で礼儀正しかった。衛生面もインドより良く、特にトイレはインド・レベルから評価すればどこもそれなりに清潔に保たれていた。また、国内線を2回利用したが、発券業務が手作業など、システマティックでない運営のように見えて、飛行機は意外にもスケジュール通りに動いていた。日本人はミャンマーに対して軍事政権というネガティブな先入観を持ちがちだが、ヤンゴン市内において軍人らしき人を見掛ける機会はなく、全く普通の街だった。総じて、とてもいい国で気に入った。

 ミャンマーは中国とインドが出会う場所であり、今後アジアにおいて両国が競争を激化して行く中で、必ず重要な役割を担うことになるであろう。もしくは既にそういう立場に置かれており、ミャンマー政府はバランス感覚を求められている。そういう現代の地政学的な意味でも、インド好きの日本人としては無視できない国であるし、過去に目を転じて、インドとのつながりの歴史に目を向けてみると、さらに興味深い国に映る。この機会に訪れることができて本当に良かったと感じる。

 


 

 なお、ヤンゴンにおいてインド関連の観光をする際には、indo.toのogata氏が書いた以下の記事が非常に参考になる:

 また、今回の記事は、ダウンタウンの露天本屋で見つけた以下の同著者の本を主な情報源として書いた。ヤンゴンの中にインドを見つけるために読んでおくといいだろう:

  • Thant Myint-U, 30 Heritage Buildings of Yangon: Inside The City That Captured Time, Association of Myanmar Architects & Serindia Publications, Chicago, 2012
  • Thant Myint-U, Where China Meets India: Burma and the New Crossroad of Asia, Faber and Faber, London, 2011 ((この本には訳書がある。秋元由紀訳「ビルマ・ハイウェイ:中国とインドをつなぐ十字路」白水社 2013年))

Special Thanks to Ms. M.S., where India meets Myanmar with Japanese heart!

2015年1月2日 | カテゴリー : 旅誌 | 投稿者 : arukakat