Uzbekistan 2016-17

[dropcap]ウ[/dropcap]ズベキスタン旅行は短く見積もって2年越しの夢であった。短く、というのは、ちょうど2年前、旅行を計画し、ヴィザまで取得して出発の日を待ち望んでいたものの、出発の2週間ほど前に、予約していたウズベキスタン航空成田~タシュケント直行便が1ヶ月間の欠航となり、土壇場で旅先をミャンマーに切り替えたことがあったからだ。長く見積もれば、インドの首都デリーに住んでいたとき(2001-13年)から、いつかウズベキスタンを旅行したいと思っていた。デリーからウズベキスタンはそんなに遠くないので、そのときに行ければ一番安上がりだったのだが、当時はインド国内旅行を優先していたので、ウズベキスタンは後回しになっていた。

 以前からウズベキスタンに惹かれてきたのは、ウズベキスタンには申し訳ないが、純粋にウズベキスタンという国に憧れを感じていたからではない。やはり、インドへの愛情の延長線上にウズベキスタンへの憧れが位置している。

 

 インドの歴史、特に北インドの歴史は、中央アジアと連動して来た。世界史の中でいわゆる「アーリヤ人の侵入」と呼ばれる疑わしい紀元前の出来事はさておき、シルクロードの交易などもすっ飛ばして、より検証のしやすい中世史に限って俯瞰してみても、中央アジアがインドに大きな影響を与えた場面はいくつもある。デリーにとってもっとも大きな事件は1398年のティームール(1370-1405年)による侵略だった。ティームールはサマルカンドを拠点として一大帝国を築き上げた中央アジアの雄である。デリーの発展はこの事件を機に一時停滞する。だが、そもそもデリーの発展自体、それ以前の中央アジア史の動きと少なくない関係があった。1220年、チンギス・ハーンが中央アジア最大の文教都市ブハーラーを侵略したが、この影響でブハーラー在住の文化人たちが一斉にデリーに逃れてきて、イスラーム都市として歩み始めたばかりだったデリーの文化レベルを著しく引き上げたことがあった。また、ムガル帝国の祖であるバーバル(1483-1530年)は、チンギス・ハーンとティームールの血を引いており、ティームール帝国再興の夢を抱きながら、フェルガーナからアフガーニスターンを経由してインドまで流れて来て、大帝国の礎を築いた。

 上記のサマルカンド、ブハーラー、フェルガーナなどは全て現在のウズベキスタンに位置しており、デリーを深く知る上でウズベキスタン旅行は避けられないと考えていた。それがもっと早い時期にかなえばよかったのだが、「late better than never」、思い立ったが吉日ということで、今回ようやくウズベキスタン旅行を実現させることができた。

 今回、年末年始の9日間を利用してウズベキスタンの5都市を周遊した。タシュケント、ヒヴァ、ブハーラー、シャフリサブズ、サマルカンドである。バーバルの生誕地で元々の所領であるフェルガーナを訪れる余裕はなかったが、バーバルが生涯こだわり続けたサマルカンドには行くので、それでバーバルの夢も感じられると考えた。また、国内線飛行機のチケット予約状況の関係で、タシュケント観光の時間はほとんどなかったため、実質的にはヒヴァ、ブハーラー、シャフリサブズ、サマルカンドの4都市を観光したことになる。ちなみに、6歳と4歳の子供を連れての家族旅行である。ウズベキスタンを家族旅行する日本人は珍しいようなので、その点では新境地を開けたかもしれない。

 2年前は移動と宿泊先だけを予約し、あとは自分たちで何とかするような行き当たりばったりの旅程を立てていたが、突然飛行機が長期間キャンセルになるという憂き目に遭い、ウズベキスタンは一筋縄ではいかない国であることが分かったので、今回は徹底的に安全策を採って、ウズベキスタン航空を避けた上でスルーガイド付き、専用車で移動の個人ツアーにした。旅行代理店は秘境に強い西遊旅行で、ツアー名は「シルクロードのオアシス 魅惑のウズベキスタン まるごと9日間」である。

 全体の実際の旅程と目次は以下の通りである(OZ:アシアナ航空、HY:ウズベキスタン航空。日本と韓国の時差はなし、韓国とウズベキスタンの時差は4時間)。

  1. 12月30日(金) 成田12:30→OZ101→15:10仁川17:40→OZ573→21:30タシュケント 宿泊:Wyndham
  2. 12月31日(土) タシュケント6:50→HY051→8:30ウルゲンチ→ヒヴァ 宿泊:Asia Khiva
  3. 1月1日(日) ヒヴァ1日観光 宿泊:Asia Khiva
  4. 1月2日(月) ヒヴァ8:30→専用車→16:30ブハーラー 宿泊:Asia Bukhara
  5. 1月3日(火) ブハーラー1日観光 宿泊:Asia Bukhara
  6. 1月4日(水) ブハーラー8:30→13:00シャフリサブズ16:00→18:45サマルカンド 宿泊:Asia Samarkand
  7. 1月5日(木) サマルカンド1日観光 宿泊:Asia Samarkand
  8. 1月6日(金) サマルカンド半日観光→サマルカンド13:00→17:30タシュケント22:50→OZ574
  9. 1月7日(土) OZ574→9:05仁川10:40→OZ104→12:50成田

 ここでは、ウズベキスタン旅行全体を振り返って気づいたことや雑感などを書き留めておく。

ヴィザ

 最新情報によると、2017年4月1日から日本人が観光目的でウズベキスタンに30日以内の滞在をする際、ビザは必要なくなる。よって、今年はウズベキスタン観光が大いに盛り上がる年になるかもしれない。だが、これはあくまで今年4月1日以降の話で、ウズベキスタンを訪れようと思ったら、現在はヴィザは必須だ。インドのヴィザ取得で鍛えられてきたせいか、マゾ体質となり、密かにヴィザ取得手続きが海外旅行前の楽しみになっている自分がいる。旅行代理店を通した代行や郵送での申し込みもできるのだが、ヴィザ取得も旅行のひとつと考え、自分で東京のウズベキスタン大使館を訪れてヴィザを取得した。自分で取得しようとすると、2回大使館を訪れなければならない。

 ウズベキスタン大使館は高輪にある。最寄り駅は泉岳寺駅や品川駅などだ。忠臣蔵で有名な浅野長矩や大石良雄を含む赤穂47士の墓がある泉岳寺の裏手に位置し、泉岳寺駅から徒歩だと、泉岳寺の中門を入って右手にある高輪高等学校のキャンパスをグルッと巡る小路を道なりに進むのが近道だ。

 2年前も同様に自分で取得したのだが、以前と違った部分もあった。具体的には、ヴィザ代金が3,000円から2,500円に値下げされ、16歳未満はヴィザ代金が無料になった。よって、2年前よりも取得しやすくなった。手続きの流れは、まずネット上で申請用紙を作成してプリントアウトし、パスポートコピーや写真と共に提出する。ヴィザ代金は申請前に指定の口座に振り込む必要がある。申請から1週間ほどでできる。申請は平日の10:30~12:00、受領は16:00~17:00となっているが、申請者があまり多くないせいか、割と柔軟に対応してもらえる。

飛行機

 今回利用したのはスターアライアンスのアシアナ航空である。エア・インディアがスターアライアンスに加盟して以来、マイルが貯めやすくなった。もっとも、マイルを有効活用できるほど飛行機を利用しなくなってしまったが・・・。おそらく人生で初めてアシアナ航空を利用したが、可もなく不可もなくといったところ。行きでは成田~仁川でも仁川~タシュケントでも、エコノミークラス各席にまでテレビが付いていたが、帰りの便ではどちらもテレビなしだった。子連れの旅行だとテレビがあるだけで子供を落ち着かせやすくなって若干便利だ。帰りにそれがなかったのは多少の不満点だった。機体も古めであった。機内食はおいしかった。

 驚いたのは仁川~タシュケント便だ。当然、乗客の大半はウズベク人で、既にウズベキスタンが始まっている感覚があって、それはそれで面白かったのだが、彼らの機内での行動を観察していると、先が思いやられる思いがした。まず、とにかく荷物が多い。皆が皆、大量の機内持ち込み荷物を持ち込んでおり、互いに収納棚スペースの取り合い合戦を繰り広げている。他人の荷物をどけてまで自分の荷物を入れようとするので、当然喧嘩も勃発する。収納棚に絶対入らないサイズのバッグを無理矢理押し入れようとしたり、荷物の上に荷物を載せて詰め込んだり、危険極まりない。しかもウズベク人は概して落ち着きがない。とにかく意味もなく席を立つ。飛行機が離着陸態勢に入っているのに席を立つ。飛行機が着陸したら即座に席を立って荷物を取ろうとする。こういう人々にはインドで慣れているつもりだったが、インド以外にもインド人以上にこういう人々がいるということに新鮮な驚きを感じると同時に、この便の客室乗務員が気の毒になった。

 それでも、アシアナ航空の韓国人客室乗務員も負けていなかった。ウズベク人の大半は英語が通じないのだが、彼女たちは韓国語でごり押しして落ち着きのないウズベク人たちを制していた。こういう人々を相手にしていると絶対に怒りが顔に出てしまうだろうなぁと思うのだが、彼女たちは全くめげずに、冷静にかつ毅然と対応していたので、賞賛を送りたくなった。日本人客室乗務員だとこういう図太さやタフさはないかもしれない。

空港

 タシュケントの国際空港は、世界の空港の中でもワーストだと聞いていた。なんでも、飛行機到着から空港を出るまで最低2時間かかるとか。そんなことが本当にあるのかと思っていたが、本当に2時間かかった。ウズベキスタン旅行は概して満足度の高いものだったが、空港だけは辟易したので、今後同国を旅行する人のためにも、その詳細を書き記しておこうと思う。

 飛行機が空港に着陸した途端、ウズベク人が活発に活動を始めるが、これは上で述べた通りであるのでここでは割愛する。飛行機から降りるとまずはパスポートコントロールがある。ウズベク人はパスポートコントロールに向けて我先にと走り出すが、無意味な行為なのであまり気にしなくていい。パスポートコントロールでは、列に並んだのが比較的早いタイミングだったので、大して時間を取られずに済んだ。係員もフレンドリーだった。この時点でのトラブルらしいトラブルといえば、誤って昔のヴィザにスタンプを押されたパスポートが1冊あったことぐらいだが、これは我々の状況が特殊だったためで、他の人にはあまり起こり得ない間違いだろう。ただ、念のため、パスポートを返されたらその場ですぐに確認した方がいい。

 その次はバッゲージクレームで、預け荷物を回収するのだが、これが大変だった。まず、タシュケント国際空港にはベルトコンベアが2つしかない。一国の首都の国際空港にしては貧弱である。そんなに多くの飛行機が一度に到着しないようなので、これで何とかさばけているのだろう。それはそれでいい。2つしかないので、その内のどちらかから荷物が出てくるわけだが、これがなかなか出てこない。そしてどちらから出てくるのかよく分からない。一応表示はあるのだが、係員の言うことがあっちだこっちだとコロコロ変わるので、乗客たちが大移動を繰り返す。そうやって大移動を繰り返している内にやっとベルトコンベアが動き出し、荷物が運ばれてくるのだが、まるで鹿威し(ししおどし)のようなペースでしか荷物が現れない。延々と自分の荷物が出てくるのを待っていた。ウズベク人たちの預け荷物の量も半端ではないので、余計自分の荷物出現が遅くなる。また、ウズベク人たちがカーゴをベルトコンベアのギリギリまで付けて待っている上に、まるで芸能人の出待ちをする熱狂的ファンの群れのごとく、人がさらにギリギリまで立って互いにギュウギュウ詰めになりながら荷物を待っているので、邪魔で仕方ない。自分も最前列に立たないとベルトコンベア上に流れている荷物が見えないほどだ。こんなことをしている内に時間がどんどん過ぎて行った。

 ようやく自分の荷物を受け取り、次は荷物のX線検査と同時に税関となるが、ここでも特殊な注意が必要となる。ウズベキスタンでは、旧ソ連時代の名残なのか、貴重品や現金の持ち込み・持ち出しを厳しく監視しており、税関申告書の書き方に格別の注意が必要となる。

 まず、入国時、16歳以上は申告書を各2枚書かなければならない。2枚の申告書に、所有している現金の種類と金額、貴重品(貴金属、カメラ、PC、携帯電話など)の値段などを全く同じように書き込む。2枚のうち1枚がスタンプを押されて返されるが、これを出国時、新たに書いた申告書と共に提出するので、旅行中絶対に紛失してはならない。現金については、入国時よりも出国時の方が金額が大きいと、労働して収入があったと見なされるのか、最悪の場合、没収となるようだ。貴重品についても同様で、出国時に貴重品が増えたり減ったりしているとトラブルに巻き込まれる可能性がある。よって、注意しなければならない。16歳未満の子供を連れている場合はその子の申告書は書かなくてもいいが、保護者(複数いる場合はどちらか)の税関申告書に子供の名前と生年月日を書かされる。ただ、身構えていたほど厳密にチェックされることもなく、バッグや財布を開けさせられて中身を確認されるようなこともなかった。あくまで書類上、上記のような事柄が守られていれば大丈夫なのだろう。入国時に返される税関申告書を紛失しないように細心の注意を払うことだけが重要だ。ちなみに、申告書にはロシア語版と英語版がある。

 今回、タシュケント~ヒヴァの国内線も利用したので、出国時を含めてウズベキスタンの国際空港、国内空港、それぞれ1回ずつ体験したことになる。タシュケントの国内空港は国際空港と入り口が別である。どちらもセキュリティーが非常に厳重だった。まず、空港の建物に入る前に身体検査があり、金属探知機でチェックを受ける。空港の建物に入ったところで今度は手荷物、機内預け荷物、両方のX線検査がある。その後、チェックインをし、預け荷物を預け、航空券を受け取る。国内線ではゲート前にもう1回手荷物検査がある一方、国際線ではチェックイン後に税関があり、荷物のX線検査と、上で説明した税関申告書の提出がある。その次にパスポートコントロールがあり、通過後、さらに厳重な荷物検査と身体検査があるが、これは靴も脱がなければならないほどのレベルであった。今回は鉄道を利用しなかったが、ウズベキスタンでは鉄道駅でもセキュリティーチェックがあるらしいので、公共交通機関は面倒だと言わざるをえない。

 ちなみに、国内線利用時、チェックインしてスーツケースを一旦預けた後、手荷物検査のときに係員から呼び止められて、スーツケースのところまで連れて行かれて、中身のチェックを受けなければならなかった。引っかかったのはどうやらスーツケースの中に入れていたカイロだった。カイロの中身の多くは鉄の粉なので、X線で見ると見慣れない姿で映るのだろう。

レギストラーツィア

 レギストラーツィアとは滞在登録のことだ。これは旧ソ連圏特有の制度で、外国人の滞在を管理する目的で運用されている。旧ソ連圏のどの国でどの程度までこの制度が残っているかは知らないが、ウズベキスタンではそのまま残っている。

 滞在登録といっても、実際に旅行者が行うのは、ホテルでのチェックイン時にフロントにパスポートを預けることだけだ。あとはホテルが勝手にやってくれる。滞在登録が完了すると、ホテル名、滞在期間、パスポート番号などが記された小さな紙切れを渡される。小型の名刺のような形式のものもあれば、付箋にスタンプを押しただけのものもあったので、形式は決まっていないようだ。この紙切れを絶対になくしてはならない。我々の場合はほとんどノーチェックだったものの、出国時にチェックされ、ない場合は大きなトラブルとなることがあるようだ。

 このレギストラーツィアの何が厄介かというと、パスポートを預けるというステップがあることである。インドにも似たような制度があり、チェックイン時にパスポートをフロントに預けるということはよくあるが、大体言わなくてもチェックイン後、部屋でくつろいでいると、ボーイが持ってきてくれる。一方、ウズベキスタンでは、今回宿泊したほとんどのホテルで、こちらから言わないとパスポートを返してもらえなかった。まるでパスポートを受け取り忘れてチェックアウトして行ってしまうのを待ち望んでいるかのようだった。最初はチェックアウト時にならないと返してもらえないものなのかと思い込んでいたが、どうやらそうではないようで、慣れてきたら思い付いたときに返してもらうようにした。また、4人で旅行していたが、サマルカンドのホテルでは、大人2人分しかレギストラーツィアの紙がなく、わざわざ指示することで子供2人分のものも発行してもらった。こういうこともあるので、パスポートを必ず返してもらうことと、レギストラーツィアが全員分あるか確認することを怠ってはならない。

 レギストラーツィアに関連してもうひとつ厄介なのは、ウズベキスタンには外国人にパスポート携行義務があることだ。街中に立っている警官は外国人を見たらパスポートの携行を確認する職務があるようで、もし警察官に職務質問を受けたときにパスポートを持っていないとトラブルに巻き込まれるという。幸い、我々は一度もそんな目に遭わなかったが、バックパッカーのような身なりをした外国人はよく餌食になると聞く。こういう問題もあり、パスポートはホテルからすぐに取り戻すのが安全である。

 まとめると、ウズベキスタンでは旅行中に絶対になくしてはならないものがいくつもある。パスポートはその筆頭かつ常識であるが、それと同じくらい大事なのが、税関申告書とレギストラーツィアの紙だ。だから、パスポートと一緒にこれらの書類を収納できるような工夫をするといいだろう。

レギストラーツィア

レギストラーツィアの紙

宗教と年末年始

 ウズベキスタンはイスラーム教徒が多い国だが、旧ソ連時代に宗教を否定する共産主義が浸透したせいか、かなり宗教色が薄められている。近隣のパーキスターンやアフガーニスターンなどと比べるとその差は顕著だ。簡単に酒が買えて酒が飲めるし、豚肉も食べられている。街中にいてもアザーン(礼拝の呼び掛け)は聞こえてこないし、ブルカーをまとった女性もいない。ガイドやドライバーが仕事の途中で突然お祈りを始めるということもない。コテコテのイスラーム国家を経験してきた者の眼には拍子抜けに感じるだろう。

 ところで、年末年始に海外旅行をしようと思った場合、イスラーム文化圏は都合がいい。なぜなら西洋の文化を無視する傾向があり、年末年始でも観光地や店などが休みにならず、観光に支障が出にくいからだ。インドも、近年は徐々に年末年始を祝うようになりつつあるものの、まだまだ国民の大部分は12月31日や1月1日を特別視していないようなところがあるので、この時期に旅行するにはうってつけだ。ウズベキスタンにも同様のことを期待して旅先に選んだところもあったのだが、これだけイスラーム教色が薄められていると、逆に年末年始という西暦の変わり目は祝われるようになるようだ。それは旧ソ連時代の名残もあるだろう。ウズベキスタンでも1月1日は祝日であることもあって、12月31日はウズベク人にとって一番のパーティー時のようである。このときはヒヴァにいたが、通常時と比べて開いている店は少なかったし、1月3日以降になっても、ブハーラーなどでまだ開いていない店があった。また、ウズベキスタンではクリスマスがキリスト教とは切り離され、年末年始の祝祭の象徴として、1月15日ぐらいまで延々と祝われ続けるようで、どこへ行ってもクリスマスツリーなどがまだ飾られていた。

 驚いたのは、あちこちに鶏の絵が飾られていたことである。最初はクリスマス関連の七面鳥かと思っていたが、やはり鶏らしい。鶏と言えば酉年。ウズベキスタンでも十二支の習慣が浸透しているようである。中国からの影響であろうか。また、サンタクロースの絵と並んで若い金髪女性の絵も目にしたのだが、こちらはサンタクロースの孫娘ということで、ウズベク人に親しまれているらしい。元々はロシア民間伝承に登場するスネグラーチカ(雪娘)であろう。

サンタクロールの孫娘スネグラーチカ

サンタクロースの孫娘スネグラーチカ

 ウズベキスタン観光のメインはモスク(礼拝所)やマドラサ(神学校)などのイスラーム教関連史跡になるのだが、現在これらのほとんどは宗教施設としての機能や聖性を失っており、土産物屋コンプレックスと化している。かつて神官や神学生の部屋として使われたであろう空間には俗っぽい土産物が並べられ、その入り口には観光客を呼び込むべく、したたかな現地人が立っている。土足で入り込むことに誰も疑問を感じていない。インドやパーキスターンの「常識」に慣れていると、ウズベキスタンのこの現状には疑問を感じずにいられなかった。ただ、おかげで観光地の大半では、入場チケットに加えてカメラチケットさえ購入すれば、どこもかしこも写真が撮り放題であった。宗教施設として機能していると、この点で制限がかかることがあるので、宗教色がない方が、写真がメインの人にとっては都合がいいかもしれない。

 普通に観光しているとほとんど宗教色を感じないのだが、少し深くウズベク人の心理に踏み込むと、敬虔な信仰心が垣間見えた。例えば金曜日には人々はモスクに集まってキチンと礼拝をするし、一部のモスクや聖廟などでは、イマーム(神官)のコーラン詠唱に合わせて祈りを捧げるウズベク人の姿を見た。ハッジ(巡礼)もするし、ラマダーン月の断食もする。そういうところを発見するたびに安心感を覚えた。もっと長く滞在すれば、さらにウズベク人の信仰心を見ることができたことだろう。

旅行の時期と気候

 どのガイドブックにも、12月~1月の時期がウズベキスタン旅行のベストシーズンとは書かれていない。正真正銘のオフシーズンである。その理由はおそらく寒いからだと思う。しかし、実際にこの時期に一通り観光してみて、そんなに極端に寒いことはなかった。夜間や早朝、0度を少し下回る最低気温を記録するくらいで、日中は数度まで上がる、といった日が続いた。建物の中に入ってしまえばセントラルヒーティングや暖房がしっかりしているので、むしろ暑いくらいだ。よって、出発地が沖縄でもない限り、日本出発時に着ている防寒具さえあれば、ウズベキスタン観光では十分事足りる。

 天候は良くない日があった。観光パンフレットなどに使われているウズベキスタンの写真はどれも抜けるような青い空が印象的だが、冬期には降水量がけっこうあり、こういう晴天の日が毎日続くわけではない。ヒヴァではずっと曇り空、シャフリサブズでは雨だった。この点もオフシーズンの理由かもしれない。それでも、ブハーラーとサマルカンドでは晴れとなったので、運次第であろう。

 観光に際して一番問題なのは、年末年始に営業していない店があることである。いくつかの店はガイドブックに載るほど有名で観光コースに組み込まれているのだが、そういう店がオフシーズンに休業していることがある。例えば、ブハーラーにある有名な手作りはさみの店は閉まっていた。ウズベキスタンではひとつの史跡がひとつの店になっていることも多く、その店の閉店はそのままその史跡の内部見学不可を意味する。もちろん、外観の見学は可能だが、中が見られないものがいくつかあったのは残念だった。特に12月31日の午後や1月1日の午前などは誰も働かないようである。それでも、主な史跡などは1月1日でも開いていたので、ショッピングさえ我慢できれば、観光に支障はない。むしろ、そういう人たちがいない方が観光に集中できるかもしれない。

 冬は日が短く、観光地の開業時間も冬時間となって短くなるので、日中に集中して観光する必要もある。ただ、むしろ、ガイドの話を聞くと、日本の夏休みにあたる7~8月の方が、1年で一番暑い酷暑期であり、ずっと晴れで日も長いものの、観光には一番つらい時期のようだ。ヒヴァもブハーラーもサマルカンドも、歩いて観光することが多く、どうしても長時間直射日光にさらされることになる。昼食後はホテルで休まないと必ず体調を崩すという。冬の観光ではその点の心配がなかったので、オフシーズンといえど、最悪の時期ではなかったと思われる。

 オフシーズンの良さは、何と言っても観光客が少ないことだ。ピークシーズンを見ていないので比較はできないが、美しく広大な遺跡の中に我々だけしかいないという贅沢な瞬間が何度かあったのは、オフシーズンならではの利点だったことだろう。土産物屋の物価もオフシーズンにはグッと下がるらしい。

民族と言語

 今回は最初から最後までスルーガイド付きだったので、言葉の問題はほとんどなかった。その代わり、あまり現地語を覚えることもなかった。

 ウズベキスタンで日常的にもっとも使われている言語はテュルク語族のウズベク語で、公共の場ではロシア語が使われている。英語の通用度は低いが、時々表示はある。ロシア語の表記は当然キリル文字。ウズベク語の表記はラテン文字とキリル文字の両方が併用されている状態で、たまにモスクなどでアラビア文字も見た。

 ウズベキスタンは多民族国家であり、ウズベク人以外にもタジク人、カザフ人、キルギス人、トルクメン人などが住んでいる。語族の観点で言えば、この中ではタジク人だけがインド・アーリヤ語族のタジク語を話す。それ以外の民族が話す言語はテュルク語族で、近縁関係にある。また、ウズベク語にもっとも近いのはウイグル語だとも聞く。

 旧ソ連時代には多くのロシア人が入ってきて、独立後そのまま住み続けた人々もいる。ロシア語がよく通じることもあって、観光客で一番多いのはロシア人だ。ウズベキスタンにはコリア系の人も多いが、彼らの大半は19世紀から20世紀半ばにかけてロシアまたは旧ソ連を経由して中央アジアに移住させられた人々の末裔であるらしい。かつてブハーラーなどはユダヤ人の一大拠点で、今でもユダヤ人居住区やシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)が残っているが、現在はかなり数が減ったようだ。日系のウズベキスタン人も若干ながらいるらしい。第二次世界大戦後、旧ソ連に抑留され、ウズベキスタンで労働をさせられた日本人が一部現地に住み着いたのである。

 個人的に興味深いのは「ジプシー」とか「ヨーギー」と呼ばれる人々が街中で散見されたことだ。ガイドの話によれば、彼らはインドからやってきたという。大半がゴミ拾いや乞食をして生活しており、ウズベキスタン社会の中では蔑まれている存在だ。

 ガイドが日本語をしゃべれたおかげで、彼を通訳として介することで、日本語を通して現地の人々と意思疎通ができた。言語を専門とする者としては、かなりの楽をしてしまったと罪悪感を感じる。だが、街中の看板で見る語句や聞こえてくる言葉には知っている言葉もあった。それはペルシア語を語源とする言葉である。ウズベク語には相当な量のペルシア語が取り込まれている。インドの言語に借用されたペルシア語とは少し発音が異なっているが、十分に類推が可能であり、ペルシア語を通して情報を収集することができた。インドも中央アジアも大ペルシア語文化圏の一部であり、かつてペルシア語が共通語として使われていた時代の名残のおかげで、初めて訪れた国でも全くの外国という気がしなかったのはありがたかった。

 さらに歴史を掘り起こして行けば、サンスクリット語の影響もあるはずである。例えばブハーラーという都市名はサンスクリット語で「寺院」「僧院」などを意味する「ヴィハーラ」が語源となっているという説もあり、大昔はサンスクリット語の文化圏に含まれていたことも考えられる。ウズベキスタンではいくつかの仏教遺跡も発見されており、仏教の伝播の影響かもしれない。

通貨の話

 ウズベキスタンの通貨はスムと言う。1スムは0.04円ほどだ。ウズベキスタンでは日本円の両替が難しく、クレジットカードやトラベラーズチェックの使用もままならない上にATMも信頼できないので、必要経費は米ドルの現金で持参する必要がある。また、数値が大きい割には最高額紙幣が5,000スムまでしかなく、100ドルでも両替しようものなら大量の札束になって返ってくる。スムを余らせてしまっても再両替が難しいので、気をつけて両替しなければならない。

 僕はというと、ほとんどの場面で米ドルの小額紙幣を使った。1ドル、5ドル、10ドルあたりの紙幣が使い勝手がよかった。スムへの両替はガイドがしてくれたので、銀行や両替屋を使うことはなかった。そもそも年末年始の時期に銀行はやっていなかった。

 今回のツアーは、食費と遺跡入場料が込みとなっていたため、スムを使う場面は本当に限られていた。現地人もドルの方をありがたがる傾向にあるため、スムをわざわざ用意する必要がないほどだ。ただ、観光地以外ではやはりスムでの取引が主流のようである。

食事

 ウズベキスタンに子供を連れていくにあたって一番心配だったのは食事の問題だった。食事の問題はいくつかの階層に分けられる。そもそも衛生面の問題、口に合うものがあるのかという問題、おいしいのかどうかという問題、おいしい料理があるかもしれないが観光客が簡単においしい料理にありつけるのかという問題などなど。事前に調べてみたところ、ウズベキスタンではよく料理に綿花油を使うのだが、これが日本人の腹に合わないという情報もあった。

 蓋を開けてみたら、食べ物の心配は全く杞憂だったことが分かった。ウズベキスタンで食べた料理で不満だったものはひとつもない。子供たちもパクパクと食べていた。むしろウズベキスタンは料理がおいしい国なのではなかろうか。そもそもウズベク人はテュルク系の民族、つまりトルコ民族。世界三大料理のひとつはトルコ料理。世界でもっともグルメな民族と言われるテュルク系の人々が食べる料理がおいしくないはずがない。また、地域柄、ロシアや中国の影響もあり、興味深い食文化が形成されていた。

 一般的なウズベキスタン料理のパターンを紹介しよう。ウズベキスタンで食卓に着くと、まずは前菜が何品か出される。多くは野菜や豆類である。この辺りは韓国料理に似ていると言えなくもない。朝食の場合はハム、サラミ、チーズなども出る。前菜と同時にパン類も出される。時と場合によって、西洋風のパンのこともあれば、ナーンのこともあった。また、お茶も出される。寒い季節なので、お茶で温まれるのはありがたい。パンと前菜をつまみながらお茶をすすっていると、一人一人にスープが出てくる。野菜、豆、肉などをあっさりとした味付けで煮込んだものだ。中華風にワンタンを入れたスープが出てきたこともあったし、ロシア料理のボルシチが出てきたこともあった。パンをスープに付けながら食べてもおいしい。スープでかなりお腹が満たされてしまったところでメインディッシュ(後述)が出てくる。そしてメインディッシュが終わる頃にデザートが出される。デザートはカットフルーツのこともあればケーキのこともあった。フルーツは、メロン、リンゴ、ミカン、ザクロなどが出てくるのが一般的だった。デザートが出されることで、全ての料理が出し尽くされた合図となる。

前菜

前菜の一例

食卓の様子

食卓の様子

ナーン

ナーン

ボルシチ

ボルシチ

 メインディッシュとして、ウズベキスタンでいくつかのものを試した。ウズベキスタン風ピラフのプロフ、ウドンによく似た麺料理のラグマン、串焼きのシャシリク、饅頭風のマンティ、家庭料理のディムラマ、魚のフライなどである。肉は牛肉と山羊肉がメインで、鶏肉を食べた記憶はない。どれも何度も食べたくなるほど美味であったが、特に記憶に残っているのはブハーラーのDilkorという食堂で食べたラグマンと、サマルカンドのウルグベク天文台近くの、店名を外に掲げていない食堂で食べたプロフだ。

ラグマン

ブハーラーのラグマン

プロフ

サマルカンドのプロフ

シャシリク

サマルカンドのシャシリク

 日本ではインド料理として有名なナーンだが、決してインドの独占物ではなく、中央アジアを含むアジア一帯で食べられている。ウズベキスタンでもナーンは主食である。だが、インドのナーンとは形が異なり、丸い形をしている。食卓に出されるときは細かく切って出されることも多い。ウズベキスタンではサマルカンドのナーンが一番有名で、現地人の間ではお土産としても人気である。サマルカンドの市場や街角ではナーン売りをたくさん見かけた。だが、サマルカンドのナーンは外皮がとても固く、時間が経つにつれてさらに固くなるので、食べるのに苦労する。どちらかといえば、どこのナーンであっても、出来たての柔らかいナーンが一番おいしかった。

ナーン売り

ナーン売り

 少し不思議だったのは、ウズベキスタンでは食堂が表に店名を掲げていないことが多かったことだ。もちろん、普通に店名を掲げた店もあったが、ガイドに言わせれば、そういう店よりも、民家が非公式にやっているような食堂の方がおいしいらしい。一応、「Oshxona」などと掲げてあればお金を払って料理が食べられる場所なのだが、これは「食堂」という一般名詞であり、店名とは言えない。今回の旅行では、そういう現地の人しか分からないような食堂で食事をする機会が多かった。そしてそれがおいしかった。

 インドではガイドやドライバーが観光客と一緒に食卓を囲むことは、カースト制度の考え方から、普通は有り得ない。共食をするということは同じカーストであると互いに認め合うことになるので、一部のフレンドリー過ぎるガイドやドライバーを除けば、そこまで大それたことはしない。普通は、観光客とは別のテーブルで食べている。だが、さすがにウズベキスタンではそういう考え方はなく、ガイドもドライバーも何の気兼ねもなく観光客と同じテーブルに着いた。ひとつの食器から食べ物を取り合うことにも何の抵抗も感じていないようであった。この辺りはインドに長くいすぎたせいで気になるようになってしまった。

トイレ

 ウズベキスタンを旅行中、様々な場面でトイレを利用した。トイレは、一番ではないにしても、外国を旅行する上で重要な関心事である。特に子供を連れていると、気にせずにはいられない。

 まず、今回宿泊したホテルは中級以上なので、部屋のトイレについてはほとんど問題がなかった。唯一気を付けなければならないのは、ティッシュペーパーを便器に流してはいけないことである。ティッシュペーパーが水溶性でないことや、水の勢いが足りないことなどがその原因である。これを守らないとトイレが詰まってしまう。もっとも、これはアジア旅行の常識だ。韓国や台湾ですら同様である。使用済みのティッシュペーパーは便器のそばに置いてある汚物入れに入れる。

 観光地のトイレは、まあ我慢できるぐらいに整備されていると言っていいだろう。トイレの管理人がおり、使用料を500~1,000スムほど取られる。いわゆる和式の便器であることが多い。お金を取っているだけあって、掃除はされている。掃除はされているが、日本人の衛生観念をあまり強く持ちだしてはならない。

 観光地を外れると、トイレはインドの田舎レベルだ。つまり、トイレと呼ばれる建物や部屋の中にウンコが散乱していて、まともに使える状態にない。青空トイレの方がマシである。また、一度ウズベキスタンの民家の伝統的なトイレを使う幸運にも恵まれたが、それは単なる穴だった。

遺跡

 ウズベキスタンの観光地はどこもきれいに整備されている。ヒヴァのイチャン・カラ、ブハーラーの旧市街、サマルカンドのレーギスターン広場やシャーヒ・ズィンダー廟など、どこも言葉で表現できないほどの美しさだ。青を基調としたこれらの遺跡は、中央アジアの青空とよく似合う。観光客の大半も、これらの美しい建築物群を楽しみにやって来るのだ。

 これらの遺跡のいくつかでは昔の写真が展示されている。それは現在とは似ても似つかない姿で、廃墟と言っていい。ちょうどインドの遺跡と同じような姿である。歴史のある時点で自然に崩壊したか、戦乱に巻き込まれて破壊されたか、廃墟となった原因は様々であるが、オリジナルの姿を現在まで保っている遺跡はほとんどないと言って差し支えないだろう。オリジナルの部分は実際にはごく一部で、後にかなり大胆な修復作業を経た結果、今の美しい姿がある。内装なども息をのむほど美しいが、これも修復作業の賜物だ。オリジナルの壁画をわざと少しだけ残している遺跡もあったが、その色はさすがにくすんで鮮やかさを失っており、やはりインドの遺跡と変わらないレベルである。

 それを知ってしまうと、修復の是非を考えたくなる。一旦崩れた遺跡を現代の技術で再建することによる学術的な問題はないのか、きちんと科学的な根拠に基づいて修復を行ったのか、修復の方法は適切なのかといった様々な疑問がわいた。

 遺跡の多くが土産物屋になっている現状は上に書いた通りである。元々モスクやマドラサだった建物は、今では観光客によって土足で蹂躙され、部屋や廊下は土産物屋として現地人に貸し出されている。それでも、旧ソ連時代には、これらの元宗教施設の大半は物置など、さらに屈辱的な用途で使われていたらしく、それと比べたら今の方がマシなのかもしれない。

風景

 都会であれ、田舎であれ、ウズベキスタンの風景をよく眺める機会があったが、自分にとっては全く異質な外国という感じはせず、一昔前のインド、一番最初にインドを旅行した1999年あたりを思い出した。大都市であっても自動車の量はキャパシティを越えている状態ではないし、田舎へ行けば、自転車に乗ってフラフラと道行く人々が多い。家屋の様子もインドの田舎とそう変わりないし、道の舗装具合もよく似ていた。インドは左側通行、ウズベキスタンは右側通行なので、その点が違うくらいだった。

 都会と田舎の格差も相当なものがあった。生活そのものが違うというか、時代までもが違う気がした。タシュケントにいれば日本とそれほど変わりない生活ができそうだが、田舎へ行くと、旧ソ連時代がまだ続いているかのような寒々しい状態であった。

 ヒヴァでは、大晦日で皆ウキウキ気分なのが見てとれたが、田舎で特に何もすることがないので、人々はこぞって散歩に出掛けていた。そういえばJNUに住んでいたときも、一番の娯楽は散歩だった。大学キャンパスでなくても、暑い夏の夜、家族連れで散歩をするインド人の姿があちこちで見られた。何はともあれとりあえず散歩をする、そんな些細な楽しみがまだ残っている国、それがウズベキスタンであった。そしてそれによってこの国はインドと地続きであるということを強く実感させられた。

ガイドブック

 ガイド付きのツアーなので、ガイドブックが旅行の質を分けることはないが、それでもガイドブックがあるとないとでは知識の吸収度が段違いだ。今回旅の参考にしたのは、「地球の歩き方 中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々 2015~16」(ダイヤモンド社)、「Lonely Planet Central Asia 2014」、萩野矢慶記著「ウズベキスタン・ガイド」(渓流社 2016年)の3冊である。「地球の歩き方」は意外に情報が充実しており、「ロンリー・プラネット」よりも自分の趣味に合った情報が得られた。「ウズベキスタン・ガイド」は、日本語が少し変なところがあるものの、豊富な写真と詳しい解説があり、ウズベキスタン旅行前の予習にとても役立った。

まとめ

 インドというフィルターを通してウズベキスタンに勝手な憧れを抱いていただけで、ウズベキスタンからしたら変な旅行者だったかもしれないが、そんなひねくれ者でも寛大に受けいれてくれた気がする。ウズベキスタン旅行を通じてほとんど不満を感じたことはなかった。敢えて挙げるならば国際空港をアップグレートして欲しいということぐらいだ。税関申告書とレギストラーツィアには多少の注意が必要となるが、パスポートの管理の延長線上で考えれば、どうってことのない負担である。ヒヴァとシャフリサブズで天候に恵まれなかったことも不満だが、こればかりは運なので致し方ない。

 子連れでの旅行についても、冬期ならば全く問題ないと感じた。食べ物はおいしいし、セントラルヒーティングのおかげで部屋は暖かい。オフシーズンのおかげでゆったりと観光ができる。子供が興味を持ちそうなものがないように感じるが、子供はどこへ行っても楽しみを見つけるもので、その点も心配いらない。子連れでウズベキスタンを旅行している日本人を初めて見たと何度か言われたので、よほどウズベキスタンは家族旅行の目的地として度外視とされているのだろうが、その挑戦がかえって幸せな旅を呼び寄せたようだ。

 行きの仁川~タシュケント間の飛行機ではどうなることかと思ったが、旅行を終えて振り返ってみると、本当にいい国だった。今回、国内の世界遺産4つを一気に見て回ってしまったため、再訪する動機は薄いが、バーバルの生地であるフェルガーナの辺りや、仏教遺跡が残るテルメズ、そして「船の墓場」があるヌクスなどはまだ行き残している。インシャーアッラー、また訪れる機会が来ればと思う。

2017年1月9日 | カテゴリー : 旅誌 | 投稿者 : arukakat