会議の場において発言しない者は罪人である

[dropcap]よ[/dropcap]く日本人とインド人の国民性を比較した小ネタとして、国際会議の議長に求められる能力についてのジョークがある。曰く、様々な国の代表者が集う国際会議を取りまとめる議長に必要な能力は2つ―――インド人を黙らせる能力と、日本人に話させる能力である、というものである。つまり、インド人は無意味なことをしゃべり過ぎ、日本人はいいアイデアを持っているのになかなかしゃべってくれない、ということであろう。

 

 確かにインドでは、授業であってもセミナーであっても会議であっても、いろんな人がいろんな意見を言う。教養層の集まる場では、切れ味の鋭い発言をする人が少なくないが、どんな場においても、言わなくてもいいことまで言う人が必ずいる。利害関係があれば黙っているのが不可能なくらいだ。自分の利益を追求し、損害を最小化するため、意見を述べる。そして利害関係がなくても、基本的に目立ちたがり屋な国民性なので、発言によって何か貢献しようというよりも、発言によって存在感を示そうとしているだけのような印象もしばしば受ける。また、口頭でも文面でも、インド人は基本的に言いたいことを短く簡潔にまとめるのが苦手な国民なので、論点とは異なることを延々と語り、周りを困らせることも多い。オマケに時間の感覚は日本人よりも圧倒的にルーズである。そんなこんなで収拾の付かなくなった会議をインドで何度も目にして来た。ただ、公衆の面前で堂々と議論を戦わして事を前に進めるという姿勢は学ばなければならないと強く感じていた。会議の場で自分の意見を言わず、後で愚痴愚痴と文句を言うよりも何倍もマシである。

 インドまたはインド人から学んだことはいくつもあるが、その中でも日本に帰国した今、意識的に実践していることは、会議の場において発言する努力である。何も言うことがなくてもとりあえず何か発言するように心掛ける。こう書くと日本人なら「厄介な奴だ」となるのが常なのだが、インドを知らぬ者の発言や考えをいちいち気にして生活していては、インド長期滞在経験者は日本に住めない。

 このインド人の議論好きがどこから来ているのか、おそらく誰にとっても興味深いことだと思うのだが、バラモン教やヒンドゥー教の教義を規定する法典のひとつ、マヌ法典にもこんな言葉があることを知って、なるほどと思った。

सभा वा न प्रवेष्टया,
वक्तव्यं वा समंजसम् ।
अब्रुवन बिब्रुवन, वापि,
नरो भवति किल्विषी ।
(マヌ法典 第8章 第13条)

 その意味するところは、「真実を語らざる者は会議の場に足を踏み入れるべからず、会議の場で発言せざる者また嘘を話す者は罪人なり」と言った感じだ。インド人が真実を語っているかどうかはともかくとして、会議の場では何が何でも全員が発言すべきとする教えが十数世紀前のインドから存在していたというのは面白い。

 ただ、ポイ捨てする人がいない場所に「ポイ捨てするな」の看板がないのと同じで、こういう訓告の言葉が存在するということは、裏を返せば、そういうことをする人がたくさんいたということでもあるだろう。会議の場では真実しか語ってはいけない、という訓戒はつまり、会議の場で嘘ばかりしゃべる人がいたということであろう。これは現在のインドの状況からも容易に想像が付く。すると、会議の場で発言しない人というのも、インドにはいたのではないかとも考えられる。

 日本の議会でもそうだが、議員の仕事振りを表すバロメーターのひとつとして、インドでも議会での発言回数がある。特に選挙が近付くと、現職の議員のこれまでの実績が特集され、その中で、任期中に何回発言したかもしっかりデータとして示される。それを見てみると任期中全く発言していない議員がインドにもいたりするので、要するにこれは、会議中に寝るな、怠けるな、程度の戒めなのかもしれない。

 ちなみに、実はマヌ法典のこの条文はインドの国会議事堂にも刻まれている。日本の全ての会議室に掲げるべき言葉だと言えるだろう。

2014年7月2日 | カテゴリー : ブログ | 投稿者 : arukakat