[dropcap]イ[/dropcap]ンドの国会には上院(Rajya Sabha)と下院(Lok Sabha)があり、それぞれ日本の参議院と衆議院に機能が似ている。より実権のある議会は下院である。下院の選出議員定数は543で、これに任命議員2名が加わり、総数は545議席となる。選出議員は5年ごとに改選される。2014年は任期満了に伴う下院選挙の年であった。なにしろ有権者数8億人以上という世界最大の民主主義国の総選挙である。4月7日から5月12日まで9回に分けて地域ごとに投票が行われ、5月16日に一斉開票となった。
ただ、今回の選挙については、どの政党が勝つか、事前に予想が付いていた。選挙前の与党であった国民会議派が大きく議席を減らし、最大野党だったインド人民党(BJP)がその代わりに最も多くの議席を獲得することは誰の目にも明らかで、争点はBJP率いる連立政党―――国民民主連合(NDA)またはBJP+と呼ばれる―――が過半数を獲得するか否かであった。ほんの数ヶ月前までは新興政党の庶民党(AAP)が不確定要素として下院総選挙の行方に影響を与えると考えられていたが、AAPのピークは2013年12月のデリー州議会選挙時で、その後49日間だけ州政府の政権を運営した後に半ばヤケクソになって政権放棄してしまったことで、中間層の支持者を酷く失望させた。もし、どの連立政党も過半数を獲得しなかった場合、「ハング」と呼ばれる極めて不安定な状態となり、数合わせのために数々の汚ない裏工作が行われるのがインドの政治の常なのだが、BJPが単独で過半数を越える285議席、NDAが340もの議席を獲得し、歴史的な圧勝となったため、裏工作が一切介在する余地なく、非常にスムーズに政権が交代することになった。
今回BJPが勝利した要因はいくつもあるが、まずは敵失の部分が大きいだろう。2004年から2014年まで2期10年に渡って中央政権を運営した国民会議派は、経済無策、インフレ抑制失敗、失業率増加、巨額の汚職蔓延など、インドの政治、経済、社会を停滞させた罪を一身に背負うことになった。この10年間、首相は代わらずマンモーハン・スィンが務めたが、党首のソニア・ガーンディーが事実上権力を握っていた。ソニア・ガーンディーはインド初代首相ジャワーハルラール・ネルーの孫の妻に当たり、イタリア出身ながら、責任のない立場から絶大な権力を振るった。2004年には彼女自身が首相に就任する選択肢もあったのだが、彼女の外国出身問題が多くのインド人を不安にさせた。そこで彼女は、学者肌で政治的野心のないマンモーハン・スィンを担ぐ英断を見せ、長期政権の礎を築いた。2009年の総選挙での予想外の勝利は、彼女の手腕によるところが大きい。この頃には既に彼女の外国出身を問題視する者はいなくなっていたが、引き続きマンモーハン・スィンが続投することになった。スィン首相の発言力は日に日に弱まり、代わってソニアの権力が増大して行った。
だが、数年前からソニアの健康問題が取り沙汰されるようになった。何度か海外で治療を受けており、何らかの重病を患っている可能性が世間で噂された。そんな中、2014年の総選挙にあたって、ソニアはとうとう長男で下院議員のラーフル・ガーンディーを前面に押し出すことを決断した。明言は避けられたが、もし国民会議派が選挙に勝利したら、間違いなく首相になっていたことだろう。ネルーから数えて4代目。曽祖父、祖母、父がインドの首相となっており、首相になることを運命づけられた存在。現在43歳で、政治の世界ではまだ若いものの、父のラージーヴ・ガーンディーが40歳で首相に就任していることを考えると、「首相適齢期」だ。ラーフルが首相に就任する姿を一目見たいというのがソニアの、母親としての、心からの悲願であったのだろう。そしてそれは、首相再任を目指して選挙遊説をしていた最中にスリランカ人テロリストにより爆殺されたラージーヴ・ガーンディーへの最高の供養にもなったことだろう。しかしながら、その悲願は粉々に砕け散った。
ソニアの前に立ちはだかったのは、グジャラート州首相を3期に渡って務め、同州にインド随一の経済発展をもたらした、BJPのナレーンドラ・モーディーであった。モーディーは1950年9月17日グジャラート州ヴァドナガル生まれ。カーストはガーンチー。油製造販売業者の家系であり、現代的なカースト序列では「その他の後進階級(OBC)」ということになる。最下層ではないが、下層に属する。モーディーの父親はヴァドナガル駅でチャーイを売って生計を立てており、彼自身もその仕事を手伝っていた。しばしば彼が「チャーイ売り」と呼ばれるのはそのためだ。学生時代からBJPの支持母体である民族義勇団(RSS)に所属し、清掃やお茶くみと言った下賤な仕事を熱心にこなしながら徐々に頭角を現し、1995年のグジャラート州選挙ではBJPの勝利に大きく貢献した。
ナレーンドラ・モーディーの名前に常にスティグマとして付きまとっているのが、2002年のグジャラート暴動である。発端は2002年2月27日にゴードラーで起こった列車火災事故であった。この火災はヒンドゥー教徒巡礼者が乗る一車両でのみ起こり、58人の死者が出たのだが、これがイスラーム教徒による意図的な放火だと考えられた。この事件を契機に州内最大都市アハマダーバードなどで暴動が起こり、ヒンドゥー教徒がイスラーム教徒を攻撃し始めた。この暴動によって、少なく見積もって1,000人、多く見積もって2,000人以上が死んだとされている。多くはイスラーム教徒であった。当時グジャラート州の州首相だったモーディーは、暴動を抑制しなかったばかりか、扇動したとされ、各方面から糾弾されており、調査も行われたのだが、彼は罪に問われていない。
ゴードラー事件の真相やモーディーの暴動関与の事実は今でもよく分からないのだが、誤認しないようにしておかねばならないのは、2002年当時、モーディーは決して盤石の体制を築いていた訳ではないことだ。彼が病床に伏した前任のケーシューバーイー・パテールから州首相職を引き継いだのは2001年10月7日のことで、このときモーディーは州議会議員ではなかった。インドの法律では、州議会議員でない者も州首相に就任することができるが、その場合は6ヶ月以内に選挙や補選で州議会議員に選出されることが条件となる。彼が補選によって晴れて州議会議員になったのはゴードラー事件のわずか数日前であり、しかもこのときBJPはグジャラート州において国民会議派に押されていた。そもそもBJPがグジャラート州で弱体化していた理由は、2001年1月26日に発生したグジャラート地震でのパテール政権の対応がまずかったからで、その後の補選でことごとく国民会議派に敗北していた。州選挙を2003年に控えており、モーディーは同州におけるBJPの立て直しを500日ほどで達成するという非常に難しい使命を与えられ、グジャラート州に送られて来たのだった。彼はグジャラート州首相に就任する前はデリーで働いており、国民会議派からは「よそ者」と揶揄されていた。補選での勝利も、BJPが全力を挙げて後援してやっと成し遂げたものであり、同時期に他の2つの選挙区で行われた補選ではBJPは国民会議派に敗れている。このような状態だったため、グジャラート暴動が起こったとき、モーディーはまだ州民を扇動できるほどの実権を握っていなかったと思われる。それ故に起爆剤として扇動をした、という逆の見方もできる訳だが、結果論のように見える。グジャラート暴動とモーディーの関係は、事実関係を精査の上、極度に公平な見方を要求される。
ナレーンドラ・モーディーはグジャラート暴動の影響で決してクリーンなイメージがなく、BJPやNDA内でも彼を面白く思わない存在がいる曰く付きの政治家であるが、グジャラート州における彼の人気は絶大なものがあり、州の産業の発展に多大な貢献をしたことは疑う余地がない。州経済成長率を10%以上で長年維持すると同時に、ターター自動車やマールティ・スズキなど、他州で痛い目に遭ったメーカーの工場誘致を成功させており、停電が頻発するインドにおいてグジャラート州を「停電ゼロ州」にしたとの報道も見られるほどだ。日本との関係も深く、2007年と2012年に訪日している。欧米諸国がモーディーの入国を拒否する中での招待であり、今となってはこの出来事が日印関係にとって大きな強みとなっている。
BJPは今回、首相候補を明示して戦うという、米国大統領選挙型の選挙戦略を採用した。2009年の下院総選挙時もBJPのベテラン政治家LKアードヴァーニーが事実上の首相候補として売り出されていたが、今回ははっきりと、「BJPが政権を奪還した暁にはモーディーが首相に就任する」ということが明確に示された。モーディーを首相候補にする過程でかなりの悶着があったが、結果良ければ全て良しで、圧勝した今では誰も何も言わない。このまま誰からも止められず首相に就任するだろう。独立後生まれで初の首相であり、選挙を率いて戦い勝利を収めたOBC出身の初の首相にもなる。一方でモーディーが首相候補になったことに腹を立ててNDAからの脱退を決意した人民党統一派(JD(U))のニーティーシュ・クマールは、今回の総選挙で党に大惨敗をもたらし、ビハール州首相を辞任する羽目になった。彼もモーディーに負けないほど、ビハール州で善政を敷いていたのだが、州民は政治の内容よりもモーディー・ウェーヴに乗ることを決めたようだ。ニーティーシュとしても、今回はモーディーと敢えて袂を分かつことで、将来モーディーが失敗したときに派手に返り咲く高度な政治的計算をしていると思われる。
「モーディー・ウェーヴ」と書いたが、今回の下院総選挙を一言で表すならば、これしかない。「Tsunami(津波)」をもじって「Tsunamo」という造語が生まれたほどだ。ナレーンドラ・モーディーは頭文字を取って「NaMo」の愛称で呼ばれており、これが「Tsunami」と融合して「Tsu-NaMo」という訳だ。モーディーの人気が果たしてグジャラート州の外でも通用するか、それが最大の関心事であった。国民会議派やその他のライバル政党がモーディーの首相就任を阻止しようと彼を攻撃すればするほど―――グジャラート暴動の他にもストーカー・盗聴疑惑のスヌープゲート事件や婚姻隠匿などいくつかアキレス腱がある―――選挙の争点はモーディーになって行った。結果として、グジャラート州での成功履歴を引っさげ、「グジャラート・モデル」をインド全土に広めることを使命として掲げるモーディーに国民はインドを託した。2013年のデリー州議会選挙では「汚職撲滅」が最大の争点だったが、AAP政権の逃走により、インド国民は統治者に「発展」と「安定政権」を求めるようになった。そして過去10年間、「物言わぬ首相」の支配を受けて来た中で、インド国民は首相に「リーダーシップ」を求めるようになった。ナレーンドラ・モーディーは絶好の人材であった。そして忘れてはならないのは、いかにコミュニティーごと地域ごとに分断されようと、いかにセキュラリズム(≒政教分離主義)が国体の基本であろうと、インドは「ヒンドゥー」の国であるという事実である。人口の8割を占める圧倒的多数派のヒンドゥー教徒が同じ方向を向いたら、その勢いを止められる勢力は存在しない。モーディーには良くも悪くもそういう吸引力があった。BJPは基本的にブラーフマンなどの上位カーストから支持を受けているし、モーディーの出自がOBCであることで、下層のヒンドゥー教徒も彼を支持しやすかった。モーディーには勝利のためにあらゆる要素が揃っていたのである。
インドの選挙では複数の選挙区からの立候補が許されており、ナレーンドラ・モーディーはグジャラート州ヴァドーダラー選挙区とウッタル・プラデーシュ州ヴァーラーナスィー選挙区から立候補した。ヴァドーダラーでの勝利はホームグラウンドなので間違いなかったが、ヴァーラーナスィーは挑戦であった。彼がこの選挙区を選んだ理由はいくつか考えられる。ウッタル・プラデーシュ州は人口約2億人と、インドで最大の人口を誇る州で、議席数も80議席と圧倒的に多い(2番目に多いのはマハーラーシュトラ州だが、それでも48議席だ)。よって、過去のあらゆる総選挙において、同州での結果が全体の勝敗を大きく左右して来た。ウッタル・プラデーシュ州の選挙区から出馬することで、同州全体のBJP得票数を底上げする目的もあっただろうし、この選挙区で勝利を収めることで、彼の人気がグジャラート州内だけでなく、インド全土を席巻するものであることを示す目的もあっただろう。ヴァーラーナスィー選挙区は9回に分けて行われた投票の中で一番最後の投票日となっており、選挙戦の緊張を最後まで引っ張ることができるのも利点である。また、ヴァーラーナスィーには罪を浄化するとされるガンガー河(いわゆるガンジス河)が流れている。グジャラート暴動という過去の汚点をガンガー河によって洗い流すという象徴的意味合いも隠されていたのではないかと予想される。さらに、実はヴァーラーナスィーにはグジャラート人も一定数住んでおり、選挙において彼らの後援も期待された。
ヴァーラーナスィー選挙区においてナレーンドラ・モーディーに真っ向から対決を挑んだのは、AAPのアルヴィンド・ケージュリーワール党首であった。2013年のデリー州議会選挙において彼はシーラー・ディークシト前州首相を大差で破っており、マスコミから「ジャイアント・キラー」の称号を得ていた。もし今回彼が同選挙区においてモーディーを落選させることができれば、モーディーの首相就任を防ぐことはできないものの、AAP党員や支持者の士気を大いに高めることになっただろう。だが、現実は甘くなかった。ケージュリーワールは全力で選挙戦に取り組んだが、モーディーに30万票以上の大差を付けられて落選した。この大敗北はケージュリーワールの政治家としてのキャリアに致命傷と考えられている。今回AAPは本拠地デリーの議席をひとつも獲得できなかった。もし彼がデリーのどこかの選挙区から立候補していれば勝利できたかもしれないし、他のAAP立候補者の得票数を上乗せさせられたかもしれない。だが、ヴァーラーナスィー選挙区から立候補したことで選挙資源をデリーとヴァーラーナスィーに分散させることになってしまい、戦略のミスを追求されることになった。AAPは450人以上の立候補者を全国で擁立したものの、パンジャーブ州の4議席しか獲得できず、国政デビュー戦としては期待通りの成果を上げられなかった。また、今回の選挙でAAPは「ナショナル・パーティー」のステータス獲得を狙っていた。4州以上で各々6%以上の得票率を得るか、4州以上で各々4議席以上を獲得することで、政党は「ナショナル・パーティー」として認められる。だが、それに失敗した。AAPは早くも大きな壁に直面している。
BJPのここまでの大勝を予想できた者はほとんどいなかったが、国民会議派のここまでの大敗を予想できた者もほとんどいなかったと思われる。44議席。国民会議派が率いる連立政党―――統一進歩連合(UPA)―――でも58議席。これがどういう数字かというと、野党リーダー(Leader of the Opposition)になれない数字なのである。国民会議派はかろうじて下院第二党には踏みとどまったが、規定により総議席数の1割以上を持つ政党しか野党リーダーになる資格がなく、国民会議派以下、どの政党にもその資格がない。このような状態をインドの現行法は想定しておらず、二大政党制の存続すら危ぶまれる事態なのだ。国民会議派はインド独立前から存続するインドで最も由緒ある政党で、過去にアップダウンはあったのだが、ここまで議席数を落としたことは一度もなかった。振り向けば下院第三位(37議席)の全インド・アンナー・ドラーヴィダ連盟(AIADMK)と下院第四位(34議席)のトリナムール会議派(TMC)が迫っている。ジャヤラリター率いるAIADMKにしても、マムター・バナルジー率いるTMCにしても、それぞれタミル・ナードゥ州と西ベンガル州を拠点とするリージョナル・パーティーだ。ナショナル・パーティーである国民会議派がこれらの政党と議席数で肩を並べるというのは屈辱的な出来事である。
国民会議派と同様に大敗を喫した政党がいくつもあり、その内のひとつは先に挙げたJD(U)なのだが、注目すべきはウッタル・プラデーシュ州を拠点とする大衆社会党(BSP)である。ダリト(不可触民)を主な支持層として持ち、「ダリトの女王」と呼ばれるマーヤーワティーが長らく党首を務めている。今回BSPは1議席も獲得できなかった。同様にウッタル・プラデーシュ州を拠点とし、現在州政府で政権を担っている社会党(SP)も5議席のみと振るわなかった。BSPやSPは、カーストを票田とする「ソーシャル・エンジニアリング」と呼ばれる政治を行って来た政党であるため、これらの政党の敗北は、カースト政治の終焉を意味するのではないか、との分析も出ている。インドの有権者は、自分の属するカーストの立候補者に投票する強い傾向があり、それがこれらの政党の力の基盤となって来た。だが、モーディーが「発展」を掲げて登場したため、彼らは今回、我田引水してくれる政治家ではなく、真の「発展」を実現できる政治家に投票をしたという訳である。モーディーは「サブ・カ・サート、サブ・カ・ヴィカース(皆が一緒、皆が発展)」というスローガンを掲げているが、正にそれが有権者の琴線に触れたと言う訳だ。だが、各党の得票率(Vote Share)を見ると、必ずしも票田政治の終焉と結論付けられる訳ではないことが分かる。BJPの得票率が19%から31%に激増し、国民会議派の得票率が28%から19%に激減したのは獲得議席数の変化と対応しているし、これらの政党が得票率でそれぞれ1位と2位になっていることも自然である。ところが驚くべきことに、全国で第3位の得票率を獲得したのはBSPであった(4.1%)。また、ウッタル・プラデーシュ州内での得票率を見ても、BSPは20%近くあり、1位のBJP(42.3%)、2位のSP(22.2%)に次いでいる。それでも1議席も獲得できなかったのである。これは、インドの下院総選挙が「勝者が全部取り(A winner takes it all)」の傾向が強い小選挙区制を採っているからであり、得票率が必ずしも議席数に結びつかない怖さを今回の選挙は如実に示すことになったと言える。よって、今回の選挙結果から「インドの有権者の成熟」や「投票パターンの変化」といった結論を導き出すのは早計であろう。BSPが0議席に終わったのはたまたまだと言える。
今回もうひとつ争点になったのは血統政治の是非であった。まだ政治家としての経験の浅いラーフル・ガーンディーが、「ネルー・ガーンディー王朝」と揶揄されるガーンディー家の末裔だからと言って首相になっていいのか、それが真剣に議論されたと言っていいだろう。そして国民会議派の惨敗という結果を見る限り、血統政治は拒否されたと断言することもできる。インド国民はラーフルを国のリーダーとして拒否したのである。ラーフル自身も選挙区において苦労することになった。彼が立候補したウッタル・プラデーシュ州アメーティー選挙区は1980年以来ガーンディー家の者が立候補し続けて来た牙城であり、独立以来ほとんど他党に明け渡していない。ラーフルは今まで二番手に数十万票の大差を付けて勝利して来た。この、勝利が約束された選挙区において、今回ラーフルはBJPの対抗馬スムリティ・イーラーニーに苦戦を喫することとなり、わずか10万票ほどの差で辛勝した。国民会議派の敗北どころか、同党の顔とも言うべき政治家の首まで危うかったのである。これはネルー・ガーンディー王朝の権威失墜を意味すると考えてもいいだろう。
しかしながら、これは血統主義が弱まったことを直接意味しない。なぜなら今回SPが獲得した5議席は全て党首ムラーヤム・スィン・ヤーダヴの近縁者の手に渡ったのであり、血統主義そのものである。やはり政治家の血脈を尊重する傾向はそう簡単には変わらないと思われる。それでも、新首相に就任するナレーンドラ・モーディーは、近縁者を重用しない主義で知られる政治家であり、その辺りの潔癖さは彼に期待していいのではないかと考えている。
日本の報道では、ヒンドゥー至上主義政党のBJPが勝利し、イスラーム教徒虐殺を扇動したとされるナレーンドラ・モーディーが新首相に就任することで、パーキスターンとの関係悪化を不安視する見方も出ているが、僕はそうは思わない。両国とも核保有国ではあるが、印パ関係は、気心が知れ合った者同士の、本音と建前を駆使したゲームと言った側面が強く、「仲良く喧嘩しな」の世界である。一番危ないのは、どちらか又は両方の国の国内事情が不安定になったときで、国民の注意を逸らすために外部に脅威を作ることがある。それに最適の相手を両国は隣に持っていることになる。だが、今回のBJPのように、過半数の議席を獲得し、盤石の体制を整えているならば、パーキスターンとの関係改善を志向しない手はない。むしろパーキスターンの方にその準備があるかが問題となるが、今のところパーキスターンはモーディー新首相との友好関係樹立を急ぎたい様子である。きっと印パ関係は短期的には良い方向に向かうであろう。また、既にLKアードヴァーニーがジンナー賞賛発言など、パーキスターン関係でいくつか失敗を犯しているため、モーディーにとっていい教訓になっているはずである。印パ関係改善に必要以上に入れ込むこともないであろう。一定の距離を保ちつつ、徐々に歩み寄りを進めて行くはずだ。
日印関係は今までにないほど進展するだろう。モーディーは、欧米諸国から拒絶されている時期に日本に招待してもらったことを恩義に感じているだろうし、日本人に対して非常にいい印象を持っているということは様々な情報源から知ることができる。安倍首相との政策的な相性も悪くないばかりかベストマッチであろう。初の外遊先が日本になるとの情報も飛び交っている。彼がどんな経済政策を実施して、それがインドの経済や、インドに進出する日本企業にどう影響を与えるのかは、門外漢の僕には予見できないことだが、両国の距離が今まで以上にグッと縮まることが期待される。
モーディー政権が長期政権となる可能性は高いが、今回のBJPの大勝はBJP人気と言うよりもモーディー人気の賜物であり、彼の一挙手一投足が今後の政権の行方を左右するという状況となっている。前政権時のマンモーハン・スィンとは好対照だ。モーディーの代わりはいないのである。よって、モーディーの消滅がBJPの失脚とインドの敗北に直結することとなり、BJPの敵にとっては今後も攻撃対象が明確であるし、インドの不安定化を狙う勢力にとっては唯一最高の標的が登場したことになる。「アブ・キ・バール、モーディー・サルカール(今回はモーディー政権)」をスローガンに選挙を戦い、手にした圧勝に酔ったBJPの党員や支持者たちは、早くもスローガンを「バール・バール、モーディー・サルカール(何度でもモーディー政権)」に切り替えている。モーディー新首相はインドをどんな方向に導くのだろうか?