[dropcap]日[/dropcap]印交流史において、日本に初めて上陸したインド人として必ず引っ張り出されるのは、東大寺の大仏開眼供養を行った菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)だ。南インド出身とされるボーディセーナはヒマーラヤ山脈を越えて唐に至り、そこで日本から来訪した遣唐使の要請を受けて、736年に来日した。752年には盧舎那(るしゃな)仏像開眼供養会の開眼導師を務め、その功績から東大寺四聖の一人に数えられている。菩提僊那は二度と故郷に戻らず、760年に奈良の大安寺にて死去したとされている。日本の仏教史上においても重要な人物だ。
実は、菩提僊那の来日からおよそ半世紀の後、もう1人のインド人が日本に上陸した可能性がある。840年に成立した「日本後紀」巻八に記されている「天竺人」である。
「日本後紀」によると、延暦18年(西暦799年)の秋、「参河國」に小船が漂着し、そこには袈裟に似た布をまとった一人の青年が乗っていた。年は20歳くらい、身長は5尺5分(153cm)、耳が3寸(9cm)ほどあった。言葉が通じず、どこの国の人か分からなかったが、唐人によると、その人は「崑崙(こんろん)人」とのことだった。後にその人は言葉を習い、自分は「天竺人」であると自称した。この「天竺人」は常に一弦の琴を弾き、その歌声は哀しげだった。その人は草の実に似た物を持っており、それは綿の種だと言った。「天竺人」は川原寺に住むことになり、後に近江国の国分寺に移り住んだ。
「日本後紀」に記された「天竺人」の記述は以上だ。「天竺」とは今でこそインドを指すが、当時は漠然と唐よりも遠い外国のことを指しており、「天竺」という言葉のみをもって、この人の出身地を、現在のインドもしくは南アジアと断定するのは短絡的だ。しかしながら、綿の種を持っていたという点は興味深い。なぜならインドは最も古くから木綿の栽培が行われて来た場所であり、綿織物は太古の昔よりインドの特産品だった。一方、「参河國」は現在の三河地方(愛知県東部)と見て問題ないだろうが、三河のどこに漂着したのかについては「日本後紀」は沈黙している。
平安時代の三河地方に流れ着いた「天竺人」や、その人が持ち込んだ「綿の種」についての記述は、その後のいくつかの文献でも散見される。例えば、寛平4年(892年)に成立した「類聚国史」巻199殊俗「崑崙」では、延歴19年(西暦800年)の夏に、「崑崙人」が持って来た綿の種が、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、太宰府などの諸国で蒔かれたとされている。
近世になると、799年に「参河國」に漂着した「天竺人」と「綿の種」は、現在の愛知県西尾市天竹(てんじく)町と結び付けられて語られることになる。安永4年(西暦1775年)に書かれた「三河刪補松」には「木綿、桓武帝ノ朝、延暦一八、蛮人種ヲ積ミ来ル舶、三河ニ漂着ス。着船ノ所ヲ天竺村ト云。今天竹ト書改ム」とあり、「天竺人」が漂着した場所は「天竺村」もしくは「天竹」と特定されている。天保7年(1836年)の「参河志」においても、「木綿 初参河国に得たり。異国船の泊る処、今、天竹と云。上古、天竺と記す。幡豆郡に属す。伝曰、天竺人泊る処名天竺云」と書かれており、やはり「天竺人」が漂着した場所は「天竹」もしくは「天竺」とされている。
天竹町には現在、天竹神社という神社がある。この神社では、綿を司る棉祖神(めんそしん)が祀られている。棉祖神を祀った神社は日本で唯一だと言う。棉祖神は「新波多(あらはた/にいはた)」神とも呼ばれるが、これは「波多(はた)」が養蚕や絹織物を日本に伝えた秦(はた)氏の姓の読みに当たることから、絹に次ぐ織物を伝えたということで、「新たな波多」、つまり「新波多」とされたのであろう。綿を伝えた天竺人に与えられた姓だと言える。
天竹神社は矢作古川の西岸に位置しており、名鉄西尾線の上横須賀駅から歩いて20分ほどだ。この神社こそ、1200年前に三河に漂着した天竺人と、そのとき日本に伝わった綿に由来している。天竹神社では毎年10月の第4日曜日には棉祖祭(めんそさい)が行われている。今年は10月25日だった。この棉祖祭に合わせて天竹神社を訪れてみた。
西尾市Twitterアカウント(@nishio_city)などの情報によると棉祖祭は午後2時から始まるとのことだったので、それに間に合うように現地に赴いた。上横須賀駅から西へ向かい、矢作古川に架かる富川橋の上を歩いていると、対岸にいくつもの幟(のぼり)がはためていているのが見えた。
天竹神社の境内はこぢんまりとしており、隣にある地蔵堂の境内とつながっている。石造の鳥居と拝殿の間はそれほど距離がなく、拝殿の奥に本殿がある。鳥居をくぐって右手には手水舎があり、鳥居と拝殿の間には船の形をした神輿が展示されていた。拝殿や手水舎は「御神燈(ごしんとう)」と書かれた提灯の数々で飾られていた。また、手水舎の裏には天竹神社や綿に関する簡素な資料館がある。鳥居をくぐって左手には社務所があり、ここでお守りを買ったり、朱印を押してもらったりできる。神社の由来などを記したパンフレットなども配布している。
また、神社の正面にはちょっとした広場があり、子供用の遊具がいくつか置かれている。今日は祭りということもあって駐車場となっていた。その広場の一角に小さな綿畑がある。「御神綿」と書かれているので、天竹神社のものであろう。一部ではあったが、ちょうど花も咲いていた。これらは「黄種」と呼ばれる特殊な綿の木のようである。
天竹神社に着いたのは午後1時半前で、法被を着た地元の人々を除けば、他に見物客などそんなにいなかった。ところが午後2時頃になると、人の数がだいぶ増えた。それでも、他の有名な神社の祭りとは比べ物にならないくらい少ない。その内、烏帽子をかぶり、狩衣をまとった神主さんたちが数人現れた。また、綿関係の仕事に従事する業者と思われる人々の一団も社務所の中から出て来た。境内の一角に結界を張ってある一角があり、そこには台が設置され、その上には木の枝など、祈祷用の道具と思われる品々が予め置かれていた。神主さんは、儀式の始めとして、そこに置かれた木の枝を取って、人々のお祓いを始めた。一通りお祓いが終わった後、業者の人々を連れて拝殿の中に入って行った。一般人は外からその様子を眺めるしかなく、中で何が行われているのか、分からなかった。
中で神事が行われている間、境内の別の一角には畳が敷かれ、糸車など数種類の道具が置かれた。糸車は、「インド独立の父」マハートマー・ガーンディーが回していたチャルカーと同じ形の物だ。これらは、収穫した棉を綿糸にするまでに使われる道具である。これらを利用して、手作りの綿糸作り実演が始まった。見物客もそれらの道具を使わせてもらえるので、一種のワークショップのようなものだ。三河木綿の保存会など、これらの使い方を知っている人々が見物客として来ていて、教えてくれた。
綿糸を作る順番としては、まず、「くり棉機」と呼ばれる道具で、収穫した棉から種を取る。くり棉機は、インドで見たサトウキビジュースを作る道具か、もしくは「キン肉マン」に登場するサンシャインの必殺技「地獄のローラー」に似ており、2つの回転するローラーの間に棉を入れ、ローラーと連動したハンドルを回すことで、棉が潰され、種のみが手前に落ち、繰り出された棉が奥に落ちるという仕組みになっている。この行程を「くり棉」と呼ぶ。
その後、「カラ弓」と呼ばれる一弦楽器のような道具を使って、棉をはじき飛ばして柔らかくする。これを「棉打ち」と言う。この行程の実演についてはこのときには行われず、後に行われたため、後述する。ちなみに、「棉」と「綿」はどちらも「めん」「わた」などと読むが、漢字に使い分けがあるようだ。収穫した実、およびくり棉によって種を取り除いた状態のものを「棉」と呼び、棉打ちをしてほぐされたものを「綿」と呼ぶ。よって、ここからは「綿」となる。
「綿」となったものを、今度は糸車によって紡ぎ、一本の糸にする。この行程を「糸紡ぎ」と呼ぶ。右側にある大きな車輪を回すことで左側にある棒が回転し、そこに結び付けられた綿の繊維が撚られて糸になって行く。やってみるとなかなか難しく、すぐに糸が途切れてしまう。
午後3時になると、社殿の中で行われていた神事が終わり、神主さんたちが表に出て来た。その内、2名の神主さんが畳の上に上がり、上述のカラ弓を持って、ビヨンビヨン音を立てながら棉を弾き始めた。この日はとても風が強く、弾かれた綿は宙に舞って四方八方に飛散して行った。ただ、儀式の一環として行っており、棉打ちによってできた綿を回収できなくてもOKのようだ。
棉打ちが終わると棉祖祭も終わりのようで、いつの間にか見物客もまばらとなっていた。法被を着た人々がそそくさと幟や提灯などの片付けを始めた。
まるで1200年も前から綿々と続く神事のように見えるが、実は天竹神社も棉祖祭も、それほど歴史のあるものではない。天竺人が伝えたと言う棉にしても、前述の通り、日本各地で栽培されたという記述はあるものの、それらは日本の風土に合わず、後に全て途絶えてしまったという記録も残っている。日本に棉作が根付いたのはせいぜい4-500年前で、天竹を、8世紀における天竺人の上陸をもって、「日本の綿文化発祥の地」と断言するのは困難だ。
18世紀の記録では、天竹の地にあったのは神明宮一社のみで、天竹神社の名はどこにも見当たらない。民俗学者の逵志保 ((逵志保「崑崙人が運んだ綿の種―「歴史」を包括する渡来人伝説―」(「世間話研究」第14号、2004年10月、世間話研究会))) 氏によると、天竹神社が建立されたのは1883年である。
その経緯はこうだ。天竺人が居住したという川原寺には、天竺人の姿を描いた絵が祀られていたようなのだが、これが後に、現在天竹寺の隣にある地蔵堂に移され、棉祖神として信仰対象となっていた。あるとき、近くの畑から壺の欠片が見つかった。1881年にこの地を巡視に訪れた愛知県令がその欠片を見て、「これに棉祖神が綿の実を入れてきたのだろう」と考え、壺を復元させた。ちなみにこの壺は天竹神社の宝物として、今でも保管されている。棉祖祭で展示されている船神輿でも壺がご神体扱いされていた。
折から明治政府による神仏分離令が出ていたこともあり、この壺の発見を機に、1883年、地蔵堂の隣に独立した社祠が建てられた。これが現在の天竹神社の始まりである。ただ、このときは「新波陀社」と呼ばれていたようだ。1914年に神明宮を合祀し、村社に昇格した。ところが1945年1月13日に発生したマグニチュード6.8の三河地震によって天竹神社の社殿は崩壊する。戦時中ということもあってすぐには再建されず、また戦後においてもしばらくの間、放置状態だったようだ。
天竹神社にとって最も重要な年は1971年だ。この年に奇妙な事件が起こる。その様子は、逵氏の記述をそのまま引用するのが一番分かりやすいだろう。 ((同書 p.15-16))
1971年4月6日、神職は兼務で日頃は神社に人がいないため、総代長老に「上州の布団屋」5人が訪ねてきたという。彼らは、辛亥の年に紫の綿布団を手に入れると長生きするという言い伝えがあること、今年はその60年に1度の辛亥の年で、布団を売るなら、天竹神社の棉祖神の守札を付けて売れば、有り難みも増すだろうと言ったらしい。聞いたことのない話だったが、守札を受けに来たと知り、200枚程を分けた。一度にこれだけの守札が出るのは初めてのことで、神社に守札がなくなり、伊勢の印刷会社に千枚を注文したという。しかし後日、伊勢から持ち帰った千枚の守札は、そのまま受けに来た人が持ち帰った。それを契機に、連日、守札を求めて業者が総代宅を訪れるようになり、紫の綿布団は瞬く間にブームになっていったらしい。
布団屋の訪問から3ヶ月、地元紙『愛三時報』(1971年7月22日付)は「長病にきくおフダもらいに 棉祖神社がブーム バスで全国から5万人』とし、「『神社のおフダをフトンに入れて寝ると長病をしない』という伝説」と、まるで昔から言い伝えられていることのように記した。はじめは布団業者は天竹神社の場所を伏せていたというが、もともと綿業界では知られていた神社であったため、守札の出どころはすぐにわかり、紫の綿布団ブームは急速に広がっていった。
その後、御祓いを受けた綿を商品に添えたいという要望が綿業者から出てきて、地元の婦人会が対応することになった。連日、社務所で綿を小さく丸めて半紙に包む作業を行なったという。当時、作業を行なった方たちは「折っても折っても札が売れて、(天竹神社は)有名だった」と、懐かしそうに話す。
布団屋が初めに守札を求めに来て半年、10月8日付『愛三時報』には、30万枚の守札が出たと記され、「全国から廿万人が参拝 棉祖神ブーム 1500万円で本殿改築」と、改築資金がないためにこれまで見送られていた本殿の改築が急遽行われることになった。こうした人の流れに、神社付近を走る名鉄電車も目を向けないわけにはいかなくなってきた。名鉄電車は全線にポスターやチラシを出し、秋祭りの日には特急を臨時停車させたという。『愛三時報』11月25日付コラムでは、「棉神さまや紫のフトンで全国に知られる」天竹神社が、「様相を一変した」と記し、祭りにはタル酒が振舞われ、参詣客は60万人を記録したと報じた。本殿改築と拝殿新築の工事が終わっても、「4700万円の残金があった」という。
<中略>
しかし、辛亥の年という一年の限定は、年を越すと一気に人の足を遠のかせた。守札は大量に余った。しかし、地域の人たちは、この降ってわいたようなこの出来事を、一年間楽しんだのである。地域の人々は、「まるで夢のような」一年だったと振り返る。
どこからともなく始まった紫の綿布団ブームにより、この小さな天竹神社に60万人の参拝客が訪れ、守札が飛ぶように売れたのである。その資金でもって社殿が建て直され、現在に至る訳だ。
ちなみに、「紫の綿布団」は現在でも寝具店などで「縁起のいい品物」として売り出されている。なぜ紫の綿布団が縁起がいいのか、については、とあるウェブサイトにこのような説明があった。 ((ふとんのオオギヤ))
紫色は色がさめやすい=熱がさめやすい=病気がさめる(治る)といわれ、お子様や、お孫様から長寿と健康を願い、贈り物として使われております。
天竹神社で行なわれる祭礼についても、今でこそ棉祖祭とされているが、以前は単に「大祭」とだけ呼ばれていた。その内容も変わった。以前は神楽、浪曲、子供相撲、野外映画などが催されたようなのだが、現在は「古式の綿打ち」と銘打って、今回見物した通りの行事が行なわれている。はじめは名古屋の布団店の職人が綿打ちを行なっていたようなのだが、最近は地元の保存会が行なっているようだ。つまり、「古式の綿打ち」は天竹町で綿々と受け継がれて来たものではない。船神輿についても、完成したのは1981年だ。社務所が改築されたのは1984年、その翌年の1985年には綿の資料館も建てられた。
果たして1200年前にこの地に漂着した青年はどこから来たのだろうか。残された資料からは、それを特定するのは難しい。だが、断片的に残る文献や、この地からたまたま発見された出土物などが、以前より伝わる伝説や地域の人々の思惑と絡み合い、「歴史」を紡ぎ出して来た。この「歴史」を守るため、近隣の学校では棉を取り入れた体験学習も行なわれているという。そして、天竺人の伝説はとうとう国際交流にまで発展した。1995年9月22日、インド大使が天竹神社を訪れたのである。そのときの写真は、誇らしげに、資料館や社務所に飾られており、神社で配布されているパンフレットにもその旨が記されている。
大河ドラマを見て検索してやってきました。卒業した高校は吉良高校です。当時神社から古川を隔てたすぐ東側に位置していたかと思います。古布の木綿が大好きで洋服や小物を作ったり、最近は機織りもやっています。懐かしい地の興味ある木綿の関係の神社のときて一気に読ませていただきました。
3年間通ったのにそのような神社の存在は
全く知りませんでしたがなにかご縁があるような気に勝手になっております。そのうち一度訪れてみたいとも思いました。
返信遅れて申し訳ありません。天竹神社の棉祖祭、是非見てみてください。